
デビューから現在まで、三十余年もの間、人気トップ銘柄として輝き続ける「十四代」(山形県)。酒を醸した高木顕統(あきつな)さん(2023年に辰五郎を襲名)は、日本酒界に様々な変革をもたらしてきた。25年4月からスタートしたこの連載では、「十四代」が与えた影響について、後輩の蔵元や酒販店、飲食店の物語を通じて25回にわたって紹介。これまでの物語を振り返りながら、「十四代」が切り拓いた日本酒の新しい世界について考えてみたい。
1994年のデビューで、日本酒界を大きく変えたと言われる「十四代」。今回の連載にあたって、後輩蔵元や酒販店、飲食店の店主らに話を聞いてみると、「十四代」が彼らに与えたインパクトの大きさは、想像をはるかに超えていた。それは高木さんと親交のある蔵元に留まらない。造る酒の傾向が「十四代」とは真逆と言っていいほど異なり、取引する酒販店も重ならない、いわば高木さんとは遠い関係と思っていた蔵元たちが目元を潤ませながら十四代への思いを語る姿に、筆者は胸を熱くした。
反響も大きく、複数の蔵元から「実は僕もインスパイアされた一人」と打ち明けられ、「あの蔵元が十四代と関わりがあったなんて意外だった」「あの有力酒販店がそんな苦労をしていたなんて……。十四代の存在の大きさを実感した」など、多くのコメントを拝受。改めて、「十四代」が日本酒界に与えた波紋の大きさを実感した。
「十四代」という酒の何が、それほどまでに人々の心を大きく揺さぶってきたのだろう。
第一の衝撃は、94年、デビュー時の酒の“斬新な味わい”だった。
令和の今、身近には甘酸っぱい酒やキリリとドライな酒、低アルコールのソフトな酒やスパークリングタイプなど、魅力的な日本酒が百花繚乱のごとく咲き誇っている。しかし、かつて日本酒のバラエティーは今よりずっと乏しく、約30年前には、すっきりとした辛口の日本酒が全盛だった。当時、淡麗で辛口の酒に人気が集まったのは、大量のアルコールと糖類などが添加された安価な酒の後味の重さや不快な甘さへの反動でもあった。
ところが94年に登場した「十四代」は、新鮮な果実のような香りと、溌剌とした濃醇な旨味を併せ持つ“芳醇旨口”の酒として、鮮烈なデビューを果たす。豊かな甘さや旨味を湛えながらも、飲み心地は軽やかで、飲んだあとは心地よく消えていく。かつて経験したことのない、新しい味わいだった。
はじめにこの酒の斬新な魅力に気が付き、熱烈に推したのは、酒の目利きである地酒専門の酒販店店主たちだった。
「こんな酒を待っていたよ! 十四代は辛いでもない、甘いでもない、旨い酒だ!」(東京・四ツ谷「鈴傳(すずでん)」故・磯野元昭さん)
「今まで経験したことのない、弾けるような旨さに驚いた。流行っていた新潟の淡麗辛口タイプとは真逆でしたが、絶対にウケると確信しました」(東京・多摩「小山商店」小山喜八さん。連載第7回で物語を紹介)
「新鮮な果物をガブリと齧った時のように香りや味が口の中で爆発した。こんな衝撃は初めてでした」(福島県・郡山「泉屋」佐藤広隆さん。連載第5回、第6回、第25回で物語を紹介)
「おおおお!と思わず声が出てしまうほど旨かった。フレッシュさと旨さ、甘さ、後口の軽さのバランスが取れていて、気絶しそうに旨かった」(東京・江東区=当時)「はせがわ酒店」長谷川浩一さん。連載第12回で物語を紹介)。
デビューしたばかりの無名の銘柄を熱烈に推した酒販店によって、飲食店や日本酒ファンは「十四代」の存在を知るようになる。筆者が「十四代」を知ったのも、虎ノ門にあった「鈴傳」直営の酒場(2008年閉店)だった。それまで体験したことのない新しい日本酒の美味しさに飲み手は衝撃を受け、熱狂したファンによって、「十四代」の噂は拡散。瞬く間に全国区のスター銘柄に昇りつめる。

一方、「十四代」を扱う酒販店も、一躍、注目されるようになる。
94年春に、高木さんが自ら酒を持ち込み、「十四代」の特約酒販店第一号となった「鈴傳」は、当時、すでに地酒の有力店であったが、後発店にとって「十四代」は売り上げの根幹を成す、特別な銘柄になる。
「小山商店」の小山さんは、「地酒の店としては後発隊で、人気の新潟の酒は何年待てば仕入れの順番が回って来るかわからず、店の核となる銘柄が必要だった」と言う。店の常連が持ち込んだ初仕込みの酒「十四代 中取り純米」を飲んで惚れこみ、初年度の94年から取り扱いを開始。酒の会を開き、高木さんを家に泊めて、家族のように親身になって高木さんを後押し。今では“地酒の殿堂”とも言われる一店舗で売上14億円を超える超繁盛店となっている。
「下町のちっぽけな店だった」という「はせがわ酒店」の長谷川さんは、新潟の酒を仕入れることができず、全国を行脚しながら、煙突を目当てに飛び込みで地酒を仕入れていたが、無名な銘柄ゆえに売り上げは低迷。月末に支払いができず、ビデオデッキを質屋に持っていくほど困窮していた。経営を飛躍的に向上させたのが、95年から扱いを始めた「十四代」だった。「本丸」(当時は本醸造)は短期間に爆発的に売れた酒となり、初めてのスマッシュヒット達成に胸が熱くなったという。現在では、東京都心の一等地に6店舗を展開し、地酒の有力店として全国に名を轟かせている。


第二の衝撃は、当時25歳だった蔵の跡継ぎ自ら酒を造ったことだった。
令和の時代では、若い後継ぎが自ら酒を醸すのは、珍しいことではない。“蔵元杜氏”というスタイルは、現代のスタンダートと言ってもいいだろう。だが30年前、蔵元は経営に専念し、酒造りは杜氏と蔵人たちが務めるのが通例だった。蔵元家の多くは地域に根差した旧家で、杜氏の多くは故郷で農業を生業とし、冬場に酒蔵に泊まり込んで酒造りに専念する季節労働者だった。腕利きの杜氏たちが熟年世代だったのは、下働きから始めて経験を積み、何十年もの年月を経てようやくリーダーの杜氏に就任することができたからだ。
そんな時代に、蔵の若い跡継ぎが自ら酒を造るのは異例だった。しかも造った酒は、ベテラン杜氏が醸す“匠”の味とは異なる、若さが躍動するようなみずみずしい魅力に満ちていた。雑誌やテレビなど多くのメディアは、老舗蔵の25歳の御曹司による斬新な酒として、「十四代」をこぞって取り上げ、高木さんはニュースショーにも出演。「十四代」の名前と高木さんの存在は、日本酒ファン以外にも広く知られるようになっていく。
無名の酒蔵の跡継ぎが一躍スターとなり、世の中が熱狂する様子に、大きく心を揺さぶられたのは、高木さんと同じような小規模な地方蔵の跡継ぎたちだった。
現在、「東洋美人」(山口県)蔵元杜氏を務める、高木さんより5歳下の澄川宜史(たかふみ)さんは、東京農業大学醸造学科の単位習得のため、と「仕方がなく」高木酒造に泊まり込みで研修。命を削るようにして酒を造る高木さんの姿を目の当たりにして、自ら酒を造ることを決意。今では高木さんが“唯一の弟子”と認める腕利きの醸造家として知られるようになった(連載第13、14回で物語を紹介)。
高木さんが2年目の95年に世に出した「十四代」本丸を飲んで、味わいとコスパの高さに衝撃を受けたという廣木酒造本店(福島県)9代目の廣木健司さんは、「味わいと共に衝撃だったのは、僕より1歳年下の跡取り息子が造ったことでした。経験がなくても人を感動させる酒を造る、その人物に尊敬に念を抱くと同時に、勇気をもらった。自分もできるかもしれないと思ったんです。酒の造り手としての可能性と明るい未来が広がるのを感じました」と語った。
廣木さんは、その後、定番酒の名品と称賛される「飛露喜(ひろき)」特別純米酒を造り、高木さんとともに“蔵元杜氏”のレジェンドとして後輩蔵元たちに尊敬される存在になっている(連載第8、9回で物語を紹介)。


「酒造りは聖域だと思っていた。いや、聖域というのを言い訳にしていただけで、従来の杜氏制度は、永続が望める制度ではないことは心の奥で感じていた」と明かしたのは、高木さんより3歳上の王祿(おうろく)酒造(島根県)6代目の石原丈径さんだ。
問題は杜氏制度だけではない、と石原さんは考えていた。かつてサケといえば日本酒のことをさした時代から、日本人はビールやワインや酎ハイ、ウイスキーなど様々な酒類を楽しむにようになり、1973酒造年度(73年7月~74年6月)をピークに日本酒の出荷量は年々減少している。小さくなったマーケットで、従来のままの酒造りを続けていたら、いずれ小規模の酒蔵は淘汰され、残るのは資本力のあるナショナルブランドだけになってしまう。大規模蔵が手掛けていないような新しい挑戦をしていかない限り、生き残っていけないのではないか。だが、失敗のリスクを伴う新しい酒造りを、季節労働者に課すことはできない。いずれは家業を背負う蔵元が、責任を持って新たな表現をしていくしかないのではないか、と。
そんなとき、高木さんの酒造りのルポルタージュが掲載されていた雑誌『シンラ』(新潮社)1994年10月号を見た石原さんは、「この記事で紹介されている高木さんは、俺たち小規模蔵の危機感を敏感に感じ取って、新しい世界を切り拓いた先駆者だ! 生き残るためにも、さらに上にいくためにも、俺が自分で造るしかないんだ!」と、95年の冬から蔵元杜氏として自ら酒造りを始めた。今では、躍動感ある酸を特徴とする唯一無二の味わいで、熱狂的なファンがつく人気銘柄になっている(連載第15、16回で物語を紹介)。
「十四代の出現で、時代は“アフターT”になった! 新しい時代に突入したんです!!」と筆者と初対面の時にハイテンションで熱く語ったのは、高木さんより7歳下の永山本家酒造場(山口県)5代目の永山貴博さん。95年にWindows95が発売されたことを契機にネット社会へと時代が転換したことを、ビル・ゲイツの頭文字をとって“アフターG”ということに準えて、若い蔵の後継ぎの高木さん“T”が自ら造った酒「十四代」の出現は、時代を大きく動かしたと言う。それまでにも、杜氏が引退したあと、新たな杜氏を雇う余裕がないなど様々な事情で蔵元が自ら酒を造っている例がなかったわけではない。だが、高木さんは永山さんと年齢が近い蔵元の息子で、しかも造り出した酒は新時代の訪れを感じさせるインパクトがあった。
「高木さんは天才的な感性と持ち前の美意識で、それまでの酒にない魅力を持つ日本酒を造った。将来に希望を抱きづらくなっていた僕たち中小規模の酒蔵の跡継ぎたちに、高木さんは“自ら醸すことで開ける新しい世界”を見せてくれたんです」。
永山さんは97年から杜氏の下で酒造りを開始。2001年には蔵元杜氏に就任して、新しい銘柄「貴(たか)」を立ち上げ、ファンから熱く支持されている(連載第10、11回で物語を紹介)。
“蔵元杜氏”というスタイルに気が付いた高木さんと同年代の「飛露喜」の廣木さん、「王祿」の石原さん。5歳下の「東洋美人」澄川さん。蔵の跡継ぎが自ら造るという考え方は、一世代下の70年代半ば生まれの「貴」永山さん、「而今(じこん)」大西唯克さん、「宝剣」土井鉄也さんらにも波及していく。彼らが蔵元杜氏として造り上げた「飛露喜」「王祿」「東洋美人」「貴」「而今」「宝剣」などが、いずれも日本酒ファンに熱く支持される人気銘柄に成長。その下の世代の跡継ぎたちにとって、自ら酒を造ることはすでに特別のことではなくなり、現在では、蔵元杜氏のスタイルは中小規模の酒蔵のスタンダードになっている。「十四代」の登場と成功が契機となって、日本酒界は大きく変わったのだ。


高木さんは“蔵元杜氏の先駆け“と言われるが、「十四代は“銘柄と人がセットで語れる“初めての存在」と「はせがわ酒店」の長谷川さんは独自の視点を披露してくれた。
それまで酒は、“味わいと地域特性”で語られることが多かったが、高木さんの登場で“人の物語”が加わった。「十四代」がスター銘柄になった要因は、酒の素晴らしさに、若い後継ぎの物語が加わったことで、飲み手の心に強くアピールしたのではないかと長谷川さんは分析する。音楽ファンが曲だけではなく、アーティストに惹かれるように、銘柄と人がセットになった酒は、感情移入しやすい。
ちなみに“銘柄と人がセット”で語れるのは、蔵元杜氏が造る酒だけではない。「醸し人九平次」(愛知県)や「新政」(秋田県)の蔵元は、別に杜氏を立て、蔵元は企画・立案する立場で、自らの哲学や美意識を投影させた酒をプロデュースしている。個性の輝きに満ち、人とセットで語れる酒が、「十四代」以降には次々と登場し、熱烈なファンや日本酒女子の“推し活”で、日本酒市場はかつてない盛り上がりを見せている。

「それまで出会った酒は“製品”だったけれど、十四代はその年の彼の“作品”のように思える。彼は、自分が信じる旨さを追求し続ける孤高の天才アーティスト」と言うのは、酒販店「泉屋」佐藤広隆さんだ。
“アーティスト高木“の作品に心奪われ、人生が大きく変わったのが、現在、「加茂錦/荷札酒」の蔵元杜氏を務める1992年生まれの田中悠一さんだ。蔵元家の跡取りではなく、日本酒に興味もなかった21歳の大学生・田中さんは、2013年に「十四代」純米吟醸 雄町を飲んで大きなショックを受ける。
「旨い、を超えて、畏怖の念を覚えました。日本酒でこんなスゴい世界を描き出す人がいる……。自分も、飲んで怖さを感じるほど魂を揺さぶる酒を造ることができたら……」と、名門国立大学を休学して酒造りの道へと進んだ。「十四代」が放つ魅力は、酒造りに人生を賭ける若者まで生み出したのだ。
2015年にデビューした「荷札酒」は、フレッシュでモダンなテイストで、年齢や性別、飲酒経験や好みを超えて愛される人気銘柄となり、高木さんも一目を置く存在になっている(連載第21、22回で物語を紹介)。
蔵元たちが、思い思いに個性あふれる日本酒をクリエイトしている現代。私たちは好みや料理、シーンに合わせて飲む酒を自由に選ぶことができる。「十四代」登場による最大の恩恵を享受しているのは、選ぶ幸せを謳歌できる私たちファンなのかもしれない。

高木酒造
【住所】山形県村山市富並1826
【電話番号】0237‐57‐2131
※次の最終回は、高木辰五郎さんの最新インタビューをもとに、「十四代」の現在と未来について紹介します。
※文中の高木さんのお名前の漢字「高」は、正しくは“はしごだか”です。ネット上で正しく表示されない可能性があるために「高」と表示しています。会社名は「高木酒造」です。
文:山同敦子 撮影:たかはしじゅんいち(トップ画像)、山同敦子