「十四代」が拓いた日本酒の新世界 ~十五代目・高木辰五郎さんの仕事と波紋~
【「十四代」物語】山口「貴」蔵元・永山貴博さんは21歳のとき「十四代」に衝撃を受け、人生が変わった その1(第10回)

【「十四代」物語】山口「貴」蔵元・永山貴博さんは21歳のとき「十四代」に衝撃を受け、人生が変わった その1(第10回)

料理とともに楽しめる、癒やされる味で人気の「貴(たか)」。蔵元杜氏・永山貴博さんが生まれた1970年半ばは、「新政」「而今」「七本鎗」「宝剣」「伯楽星」……と錚々たる顔ぶれの蔵元の生年が揃うことから、“黄金世代”とも呼ばれている。この世代の蔵元たちにとって、蔵元杜氏の先駆けと言われる「十四代」を醸す高木酒造十五代目・高木顕統さん(2023年に辰五郎を襲名)は、どんな存在なのだろう。永山本家酒造場・五代目蔵元の永山さんの物語を2回にわたって紹介する。

「十四代の出現で、時代は“アフターT”になりました!」

優しい米の旨味とクリアーな後味が心地いい酒として、また“ゆるキャラ蔵元”ゴリさんが造る酒として、今では日本酒ファンにお馴染みの「貴」。だが、23年前は無名の存在だった。筆者が「貴」の存在を知ったのは、2002年の年末。『dancyu』2003年3月号日本酒特集の「隠れた地方の名酒」部門の候補となる酒を調査していたときのことだった。試飲会を開くにあたって、全国の主だった地酒専門酒販店に、将来期待される地元の酒を推薦してもらったのだが、広島県の「酒商山田」店主・山田淳仁さんは、隣の山口県の「貴」という初めて聞く銘柄を挙げて来た。
「隠れた酒というテーマにはぴったりですが、できれば広島の酒で」と再度、お願いしたのだが、「27歳の蔵の次男坊が、杜氏として造った2年目の酒です。イチオシだから、ぜひ飲んでみてほしい」と、いつも以上に熱がこもったコメントが。編集部と相談の上、熱意に根負けして、候補の1本に入れることになった。

ラベルを隠して行われた試飲会では、「若々しいエネルギー全開!」「粗削りだが、未来への期待大」「将来の大物」など、発展途上の魅力を評価するコメントが寄せられ、「特別純米 貴」は「隠れた地方の名酒」部門で一番人気に輝いた。

麹造りに試行錯誤していた31歳の永山さん
食中酒にはメリハリが必要と考え、麹造りに試行錯誤していた31歳の永山さん。がっちりした体格は、柔道で鍛えたもの(撮影は2007年1月)。
仕込み蔵で醪に櫂を入れる
仕込み蔵で醪に櫂を入れる。木造蔵を補修しながら使っていたが、常温蔵のため、春先には室温が高くなるのが悩みだった(2007年1月)。

「貴」を造る永山貴博さんと初めて会ったのは、試飲会から半年ほど後。旧知の「日高見(ひたかみ)」蔵元・平井孝浩さんが上京して居酒屋に繰り出したのだが、連れて来た若手蔵元のなかに、永山さんもいたのだ。野性的な風貌に人懐こい笑顔を浮かべながら、名刺を差し出した永山さん。「十四代の出現で、時代は“アフターT”になりました!新しい時代に突入したんです!!」と、いきなりハイテンションで話し始め、若さの熱量に圧倒されてしまう。
ところで、“アフターT”って何ですか?

「95年にWindows95が発売されたことを契機に、ネット社会へと世界が転換したことを、マイクロソフト社のビル・ゲイツ氏の頭文字をとって“アフターG”と言うのはご存じですよね?それに倣えば、94年デビューの高木さんによって日本酒界は“アフターT”になった。若い後継ぎが自ら造った酒「十四代」の出現は、時代を大きく動かす大事件だったんです!!」

“ビフォーT”の時代に“崇められていた”のは、熟練の腕を持つ“スーパー杜氏”が醸す酒だったが、腕の立つ杜氏を雇える財力のある酒蔵は少なくなっていると永山さん。
「やがて蔵元は、自ら酒を造らざるをえなくなると憂慮していたところ、高木さんは天才的な感性と持ち前の美意識で、それまでの酒にはない魅力を持つ日本酒を造った。将来に希望を抱きづらくなった僕たち中小規模の酒蔵の後継ぎたちに、高木さんは“自ら酒を醸すことで開ける新しい世界”を見せてくれたんです」。

永山さんは高木さんと面識はあるが、当時も今も、近しい間柄ではないという。それでも、初対面の相手に熱く語りたくなるほど、「十四代」の出現は心に響く出来事だったのだろう。「十四代は僕の人生を変えた特別な酒ですが、それだけではありません。貴の全国デビューは、酒商山田の山田さんがdancyuに推薦してくれたおかげですが、山田さんとの付き合い方は、高木さんをお手本にしているんです」と、永山さんはようやく自らについて語り始めた。

旧山陽道に沿って建つ永山本家酒造場
旧山陽道に沿って建つ永山本家酒造場。1928年に二俣瀬村役場として建てられた趣のある洋館を、1965年に永山本家酒造場が買い取って事務所として使ってきた。2016年には国の登録有形文化財に指定された。2022年には2階にカフェをオープン。カレーやスイーツ、グラス売りの「貴」が楽しめる憩いの場として、地元の人々に親しまれている(2015年3月)。

永山本家酒造場は山口県宇部市で1888(明治21)年に創業し、代々「男山」銘柄の酒を造ってきた。アルコールを添加して、糖類や酸味料で味付けした普通酒を中心に造り、1955年頃から1973年頃の高度成長期は販売量もうなぎ上りだった。販路は地元の宇部市や山口市と北九州地方で、特に直方(のうがた)や筑豊(ちくほう)などの炭鉱では大量に酒が売れた。ところが、永山さんが生まれた1975年頃から売り上げが下がり始め、ビールの卸売業でしのぐようになる。全国の日本酒の総出荷量も、73酒造年度(73年7月~74年6月)をピークに下降線を辿り始めた。永山さんは、高校を卒業した後、18歳の時にカナダへ語学留学。「家業は衰退しているし、次男に生まれた僕は酒蔵に居場所はない。海外で自分の生きる道を見つけようと思っていました」。

留学中、将来の人生設計は立てられなかったが、2年間の海外生活で知らず知らずのうちに“世界の中の日本”という視点は養っていた。それは永山さんの酒造りの指針となるのだが、そのことに気が付くのは後になってのこと。
日本に帰ってみると、売り上げの8割以上がビールという状況に陥っていた。兄の将之さんは福岡の大学を卒業して、そのまま福岡で就職していたため人手が足りない。永山さんはバイト感覚で、毎日2トントラックでビールを配達する日々を送っていた。「いつかは家を出よう、なにか別の仕事に就こうと思いながら、バイト代ももらえるし~、まだ20歳だし~と、たらたらと家にいたんです」。

現在の「貴」の主なラインナップ
現在の「貴」の主なラインナップ。右から、兵庫県産の最高品質の山田錦で仕込んだ「純米大吟醸プラチナ」、地元で自社栽培した山田錦を使った「ドメーヌ貴」、自社栽培の雄町の「純米吟醸 雄町」、“貴の顔”として人気の「特別純米60」、「特別純米 直汲」。楽しげに踊っているような「貴」の字は、永山さんの筆(2024年11月)。

そんな折、蔵元の子息を対象に、東広島市にある国税庁醸造研究所(現在の独立行政法人・酒類総合研究所)で、泊まり込みで酒造りの基礎を学べる制度があるという話が、税務署からもたらされた。永山さんは「家にいるよりいいかも」と、なんとなく参加した。ところが、21歳で入った研究所の9ヶ月間が、永山さんを大きく変えることになる。
研究所の同期生には、「喜久醉」(きくよい・静岡)、「日高見」(宮城)、「天狗舞」(てんぐまい・石川)、「天寶一」(てんぽういち・広島)、「屋守」(おくのかみ・東京)、「白岳仙」(はくがくせん・福井)、焼酎の「小牧」(鹿児島)らの子息がいた。なんと豪華なメンバーだろう!だが、96年当時、「天狗舞」以外は全国ではほとんど無名だった。研究生の年齢はまちまちであったが、父親から送り出された若手より、自らの意思で参加した年長の蔵元ほうが、真剣だったようだ。なかでも、32歳の「喜久醉」青島孝さんと、34歳の「日高見」平井孝浩さん、この2人の真剣さは群を抜いていた。

「日高見」の平井さんは、24歳の若さで蔵を継いだが、取引先から値下げの要求ばかりされ、苦戦を強いられていた。首都圏で認知度を上げようと新しい銘柄「日高見」を立ち上げて、杜氏に吟醸酒を造らせた。できた酒は満足のいくものではなかったが、酒造りの知識のない平井さんは、目指す酒を杜氏に説明することができず、もどかしい思いだった。醸造の知識を身につけた上で製造現場を改革しなければならないと、すがるような思いで研究所に学びに来ていた。
「喜久醉」の青島さんは、家業の酒造りに未来はないと考え、大学卒業後は金融業に身を投じ、ニューヨークに渡って成功。だが自分の生きる道は、故郷の静岡県藤枝市の大地にあると気がつき、醸造について一から学ぶために研究所へ入った。
新卒で、あるいは短期間の会社勤めを経て家業に就く若い後継ぎと比べて、平井さんも青島さんも10年遅れのスタートだけに、短期間で吸収しようと必死だったのだ。

“兄貴”こと「日高見」蔵元・平井孝浩さん(右)と、“ゴリさん”こと永山さん
国税庁醸造研究所(現在の酒類総合研究所)で同期だった“兄貴”こと「日高見」蔵元・平井孝浩さん(右)と、“ゴリさん”こと永山さん。この日は、平井さんの声掛けで結成された蔵元グループ「アグリ56」で毎年恒例にしている、兵庫県加東市松沢地区の圃場視察(2019年8月)。
“師匠”こと「喜久醉」蔵元杜氏・青島孝さん(右)と永山さん
がっちりと握手をする“師匠”こと「喜久醉」蔵元杜氏・青島孝さん(右)と。山口県宇部市で開かれた永山さんの結婚披露宴会場で(2013年10月)。

「目的意識もなく、部屋でゲームばかりしている僕と2人では、気迫が違いすぎた」と、初めは遠巻きにしていた永山さんだったが、次第に面倒見のいい平井さんを“兄貴”、青島さんのことは“師匠”と尊敬し、かけがえのない存在になっていく。
「青島さんはニューヨークでトップにまでたどり着いたからこそ、日本の良さや、米と水で醸す酒造りの尊さに気がつき、家業を生涯の仕事に選んだと言います。その覚悟に触れ、外国帰りだぜ、なんていう僕のちっぽけなプライドは吹っ飛びました。僕がたどりついた生きる指針は、“Think Globally, Act Locally”。世界視野でものを見て、地に足をつけて行動すること。自分の伝えたいことを、酒という形で世に問いたいと考えるようになりました」。

家業に対して光明を見出した永山さんの決意を後押ししたのは、その頃、全国デビューし、一躍スターに躍り出た「十四代」の存在だった。“アフターT”の衝撃だ。

2015年に改装して広くなった仕込み蔵
2015年に改装して広くなった仕込み蔵。足場が安定して作業性が増し、永山さん念願の空調も完備された。手前の数字はタンク番号の配置を記したもの(2015年3月)。

※次回も引き続き「貴」の話をお送りします。

永山本家酒造場
【住所】山口県宇部市車地138
【電話】0836‐62‐0088

※文中の高木さんのお名前の漢字「高」は、正しくは“はしごだか”です。ブラウザ上で正しく表示されない可能性があるために「高」と表示しています。会社名は「高木酒造」です。

文・撮影:山同敦子

山同 敦子

山同 敦子 (酒ノンフィクション作家)

東京生まれ、大阪育ち。出版社勤務時代に見学した酒蔵の光景に魅せられ、フリーランスの著述家に。土地に根付いた酒をテーマに、日本酒や本格焼酎、ワイナリーなどの取材を続ける。dancyuには1995年から執筆し、日本酒特集では寄稿多数。「十四代」には94年に出会って惚れ込み、これまで8回訪問し、ドキュメントを『愛と情熱の日本酒――魂をゆさぶる造り酒屋たち』(ダイヤモンド社)、『日本酒ドラマチック 進化と熱狂の時代(講談社)』などに収録。