
1999年、フレッシュな無濾過生原酒で鮮烈なデビューをした「飛露喜(ひろき)」。その後に発売した特別純米は、いつ飲んでも裏切られることのない安定した名酒として長年、絶大な支持を得ている。造り手の廣木酒造本店九代目・廣木健司さんは、「十四代」を醸す高木酒造十五代目・高木顕統さん(2023年に辰五郎を襲名)とともに、蔵元杜氏の先駆けとも言われ、若手蔵元から尊敬を集める存在だ。そんな蔵元杜氏のレジェンドが、「十四代は特別な酒」と言う。「十四代」は、廣木さんにどんな影響を与えたのだろうか。廣木さんの酒造り物語を2回にわたって紹介する。
「これまで飲んで最も感動した酒」をテーマに、2011年に蔵元たちにインタビューしたときのこと。「飛露喜」を醸す蔵元杜氏の廣木健司さんは、「十四代 本丸です!13年前に飲んだ一杯が僕に未来を示してくれた」と、目を輝かせた。腕利きの酒造家として、また酒蔵経営者としても評価の高い廣木さんが、十年以上前に飲んだ、年下の蔵元が造った本醸造酒(発売当時)を挙げるとは、予想していなかった。「十四代」に出会うまでの廣木さんは、どんな思いで酒造りをしてきたのだろう。
廣木さんは、福島県会津坂下町で「泉川」を醸す廣木酒造本店8代目・廣木三郎次(幼名・健一郎)さんの長男として、1967年に生まれる。冬になれば南部(岩手県)から杜氏が泊まり込みで来て酒を造り、蔵と隣接する廣木家の住まいにも蒸し米の甘い香りが立ち込めた。
「家業を継いで蔵元になることに、疑いを持ったことはありません。ただ、いまの僕のような“経営者で酒も造る蔵元杜氏”になるとは夢にも思っていませんでした」。
廣木さんが成長するに従って、酒の売り上げは下降線をたどる。酒造業以外の道で生きていけるよう総合大学を薦める両親の助言に従って、東京の青山学院大学経営学部に進学。卒業後は大手洋酒メーカーに就職し、営業職として高級ホテルや流行の最先端だったカフェバーやクラブを担当する。「バブル景気の東京は、活気に溢れ、華やかでしたね。毎日が刺激的だったし、学ぶところが多い職場で、仕事にやりがいを感じていました」。
3年半が過ぎたとき、母の浩江さんから、父の三郎次さんの体力が落ちてきたので家業を手伝ってくれないか、と電話があった。継ぐ気がないなら酒造業を廃業してもいいという母の言葉に、廣木さんは東京に居たいという思いがよぎったという。
「一方、継ぐのが当然と思って育った自分が、酒蔵の仕事を経験しない人生に、後悔はないのかと自問しました。僕はまだ若い。うまくいかなければ、そのときに家業をたたんで、新たに会社勤めをしてもいい。悩み抜いた末に、会津に戻ることを決意したんです」。
1992年秋、廣木さんは25歳で家業に就き、父に代わって営業と配達を担当する。一升瓶10本入りの重い木箱を数十箱もトラックに積みこみ、早朝4時、真っ暗な会津を発って他県へ向かい、倉庫に酒を納めて、夜道を日帰りする日々。得意先とは値下げに関する会話だけ。味については一切話題には上ることはなかった。一升の小売り価格は1,000円以下。それほど安い価格設定にしても売り上げは減り続け、ガソリン代を差し引くと粗利が出るかどうか。「毎日虚しくて、悶々としていました」。
96年には、杜氏が高齢を理由に退任を申し出てくる。だが、高額な給金を払って、新たに杜氏を雇うのは難しく、父と二人で酒造りを始めた。
「意外に簡単に、酒はできました。普通酒レベルだと、特別な技術がなくても酒はできてしまうんですよ。でも僕は上質な酒を造りたかった。張り合いのある仕事がしたかったんです。全国新酒鑑評会で金賞をとれるレベルをめざそうと何度も父に提案したのですが、コストを抑えることで酒の値段を下げて、わずかでも利益を出そうというのが父のやり方なので、即却下。取っ組み合いのけんかも度々で、父との関係は悪くなっていきました」。
こうして96年の冬から始まった初めての酒造りが、翌97年の春先に終わった。その矢先の5月、父・三郎次さんが急逝。59歳の若さだった。サラリーマンに戻れる!と思うと同時に、父を見返したい気持ちも芽生えたという。
「父は自分なりの方法で家業を守ってきた。僕も自分なりに納得できる酒を造ってから廃業するなら、父もわかってくれるに違いない。9代目を継ぎ、酒蔵の家に生まれた者として最後の挑戦をしようと決心しました」。
転機は、2年目の酒造りに取り組んでいた98年2月。NHKの「新日本探訪 寒仕込み それぞれの冬~会津坂下町」と題した番組で、酒を造る廣木さんの姿が全国放送されたことだった。「選ばれた理由は、福島の酒蔵のなかで僕の状況が一番哀れだったから。働く人たちを励ます番組になると考えたようなんです。惨めな姿が全国に放映されるなんて嫌だと思いましたが、映像に残せば、廃業したとしても、二歳の息子が成長したときに僕が酒を造る姿を見せることができる。そう考え直して、取材を受けることにしたんです」。
放送の翌日、東京・多摩市の小山商店の小山喜八と名乗る人から電話があった。小山さんは、日本酒を専門に扱う酒販店を経営していること、旨い酒を造る気持ちがあるなら応援することを、息も荒く、情熱的に語った。
廣木さんは、日本酒専門の酒販店があることに驚いた。洋酒メーカーに勤めているときは、大手業務用の酒販店しかつきあいがなく、会津に戻ってからは、酒類問屋と地元の小さな酒店が取引先だった。値段ではなく、質や味で勝負できるかもしれないと、新作の純米酒を送った。だが小山さんは「もっと廣木さん自身を表現してください。あなたはまだ若い。じっくりと酒造りをしていくつもりなら、見守ることができます。待っています」と、温かくも厳しい言葉が返ってきた。
小山さんは、高木顕統さんが25歳で初めて自ら造った「十四代」の斬新な旨さに惚れこみ、初年度から扱い始めた(連載第7回に紹介)。酒蔵の若い後継ぎが“自分が信じる旨さ”を表現した酒がスター銘柄へと昇りつめるのを目の当たりにしてきた小山さんは、廣木さんの“自分自身の表現”に期待をかけたのだろう。
だが、“自分を表現する酒”は、廣木さんには難題だった。
「父には上質な酒を造るべきだと、エラソウなことを言っていたくせに、他の日本酒を飲んだ経験もほとんどなく、ビジョンもなかった。小山さんに送った新作の純米酒も、その頃、評判が良かった“淡麗辛口の新潟酒”を真似ただけの薄辛い酒だったんです」。
翌年の酒造りが始まる冬になっても、自分を表現する酒のイメージは沸かなかったが、槽(ふね)から垂れてくる搾りたての純米酒を飲んでみたところ、光るものを感じた。当時、濾過せず、火入れもしない搾りたての生酒は商品として出荷するものではなかったが、サンプルとして送ったところ、「いいじゃないですか!この状態でどんどん出してください!」と、小山さんは興奮している。柄杓で汲んだ酒を瓶詰めし、代々の銘柄「泉川」を母に墨でラベルに手書きしてもらい、出荷すると瞬く間に売り切れて、60本、120本と注文が増えていく。小山商店が常連客と共同で開催するブラインドによる試飲・勉強会「多摩独酌会」の99年春の人気投票では、一位を獲得。「泉川」は安酒のイメージが強いというアドバイスを受け、99年夏に「飛露喜」銘柄名に変えた頃には、全国の酒好きの間で爆発的に広まっていった。
だが、廣木さんは、自分の技術が評価されたわけではないと冷静だった。“自分自身を表現する酒”を暗中模索するなかで、出会ったのが「十四代 本丸」だった。
※次回も引き続き、「飛露喜」の話をお送りします。
廣木酒造本店
【住所】福島県河沼郡会津坂下町字市中二番甲3574
【電話】0242-83-2104
※文中の高木さんのお名前の漢字「高」は、正しくは“はしごだか”です。ネット上で正しく表示されない可能性があるため、「高」と表示しています。会社名は「高木酒造」です。
文・撮影:山同敦子