「十四代」が拓いた日本酒の新世界 ~十五代目・高木辰五郎さんの仕事と波紋~
【「十四代」物語】下町の小さな酒販店から地酒の一流店へ。「はせがわ酒店」発展のきっかけは「十四代」だった(第12回)

【「十四代」物語】下町の小さな酒販店から地酒の一流店へ。「はせがわ酒店」発展のきっかけは「十四代」だった(第12回)

芳醇な美酒として人気のスター銘柄「十四代」。特約を結ぶ全国53の酒販店のうち、東京の「はせがわ酒店」は、十五代目・高木顕統さん(2023年辰五郎を襲名)が、「十四代」を世に出して2年目の1995年から取り引きを始めた。現在、都心で6店舗を展開する有力店として知られるが、「『十四代』は下町の小さな店で営んでいたときに、初めて爆発的に売れた酒であり、地酒の店へと成長できた特別な銘柄」と、社長の長谷川浩一さんは言う。

「十四代の出現で、時代は“アフターT”になりました!」

かつて地酒専門店といえば、不便な場所にあるマニア向けの店というイメージがあった。ところが、「はせがわ酒店」が2004年に開いた麻布十番店は、アクセスの良さとモダンな店構えで注目を集め、06年には世界の一流ブランドがテナントに入る表参道ヒルズに出店(その後、閉店)。07年に東京駅構内に開いたGranSta東京店には20年に醸造所を併設して話題を呼び、18年に日本橋店オープン……と、都心の一等地に次々と地酒専門店を開いてきた。

「都心の便利のいい場所に店を開くのは、一人でも多くの人に日本酒に興味を持って欲しいから。当世風の角打ちスタイルとして、カウンター席を設けたら、一人でカッコよく飲む女性の姿も目にするようになった。提案は大成功でした。日本酒の魅力を伝えること。それが、どん底だったうちの店を救ってくれた、地方の日本酒と蔵元への恩返し。残りの人生を賭けて恩に報いたい」と話す二代目社長・長谷川浩一さん(69歳)。“親分気質”で知られる名物社長は、歯に衣着せぬ物言いのなかに、日本酒と蔵元への深い愛情を滲ませる。

「はせがわ酒店」は江東区北砂で1960年に創業。長谷川浩一さんが、家業に就いたのは、1974年、18歳のときだった。
「兄が交通事故で急逝したので、靴店で働いていた次男の僕を父が呼び戻したんです。扱っていたのはナショナルブランドの日本酒が4~5銘柄と、ビール、味噌、醤油ぐらい。下町のちっぽけな酒屋でした」。
常連客は大工や鳶(とび)職など若い衆が多く、二級酒を1升瓶10本入りの木箱ごと頻繁に買ってくれたりしたが、単価は低く、利益はわずかしか出ない。長谷川さんが店を任されてから、スコッチウイスキーやバーボン、ボルドーワインなどを並べた。「銀座のバーに通って洋酒を覚え、ソムリエスクールでワインを学んで仕入れたので、下町としては良い品揃えだったと思います」。
だが、近くに大型の酒ディスカウントが開店。安売りチラシが配布され、客はディスカウントに流れてしまう。セブン‐イレブン1号店が、同区内に開業した影響も大きく、近隣にあった4軒の酒販店は消滅。「ウチはなんとか踏ん張りましたが、どん底でした」。

はせがわ酒店 日本橋店
東京メトロ銀座線「三越前駅」から徒歩1分の場所に、2018年にオープンした「はせがわ酒店 日本橋店」。入り口には奈良県・大神神社の杉玉が架けられ、窓の外には福徳神社が見える。

山の手では、地方の二級酒が売れているという噂を聞き、人気があるという新潟の酒「雪中梅」大吟醸酒を飲んでみて、旨さに驚いた。「僕は洋モノかぶれだったから、日本酒の味を知らなかったんです」。日本酒に目覚めた長谷川さんは、酒蔵に連絡したが、新規の取り引きは受けていないと言われる。名の知れた酒は、後追いでは手に入れるのが難しいことを思い知り、自分が旨いと思う酒を、自分の足で見つけようと決意。行きつけの飲食店の店主とともに、週末ごとに全国の酒蔵巡りを敢行した。

「煙突目当てに飛び込んだので、醤油蔵や味噌蔵だったのはしょっちゅうで。酒蔵の場合は名刺を出して、酒を飲ませて下さいとお願いする。非常識な話ですが、蔵元さんは紳士だから歓迎してくれました。それだけに、酒が良くないときは逃げて帰りたくなりましたよ」。
初めて心から感動した酒、静岡の「磯自慢」との出会いは1983年。家族経営で丁寧に造る極小の蔵という情報を聞いて訪れ、飲ませてもらった純米吟醸に目を見張った。
「当時珍しい+13の超辛口で、喉越しが抜群だった。酒は素晴らしかったし、糖類添加を全廃したという蔵元の姿勢にも感動してね。惚れこんで仕入れた、はせがわ酒店の原点です」

こうして70年代後半から数年をかけて、北海道と沖縄以外の全府県を踏破。扱い銘柄は増えていったが、ほとんどが無名の酒で、酒の売れ行きは鈍い。資金がなくて冷蔵庫を買えず、酒の劣化が早かった。「売れ残った酒を、泣く泣く廃棄しました。月末の支払いがキツくて、ビデオデッキを質屋に持って行って、わずかな金でしのいだこともあります。苦しくて、苦しくて、何度首を吊ろうと思ったかわかりません……」。
経営が上向き始めたのは87年ごろ。漫画誌に店が載ったのがきっかけで、ほかの雑誌にも掲載され、地元客以外に遠方からも日本酒ファンが訪れるように。名酒として知られるようになった「磯自慢」は、はせがわ酒店の看板になった。

猪口
扱い銘柄をプリントした有田焼のオリジナル唎き猪口も販売している。中央は十四代、右は磯自慢、左は伯楽星。ひとつ3,630円。

経営を飛躍的に向上させたのが、95年から取引を始めた「十四代」だった。
「20代の若い後継ぎが造った酒として、初年度の94年から知っていたけど、後追いは嫌だから、静観していた。実は居酒屋で、初作品の中取り純米を飲んでみたら、香りも、甘みも強い。質はいいと思ったけれど、僕の好みじゃなかったんです」。

遠巻きに見ながらも、気になる存在だった。都内の地酒専門店「味ノマチダヤ」店主の木村賀衛(よしもり)さんから、「十四代」と取引をしたいから一緒に蔵に行こうと誘われ、訪問することに。すると酒を造った高木酒造15代目・高木顕統さん本人が山形駅で待っていて、「お鞄(かばん)お持ちします」と、荷物を車に積み込んだ。「その笑顔の感じ良さ!品の良さ!初対面で惚れちまった。アキ(顕統)の奴、“人たらし”なんだよ」。

酒蔵を見学して、離れに案内されると、飾り棚に名だたるハードリカーがずらりと並んでいる。洋酒を扱ってきた長谷川さんは「素晴らしい品ぞろえですね」と思わず感嘆の言葉を漏らすと、顕統さんの父で、14代目蔵元の先代・辰五郎さんが「君、わかるんだ。嬉しいね」と満面の笑みを浮かべた。先代は、蒸留酒に造詣が深く、シャラント型ポットスチル蒸留器をフランスから輸入して酒蔵に設置し、米焼酎を造ってしまったほど。しばらく蒸留酒の話題で盛り上がったのちに、「長谷川さんは、きっとこの酒、お好きでしょう」と注いでくれたのが、発売したばかりの本醸造酒(当時)「本丸」だった。
「思わず、おおおお!と声が出てしまうほど旨かった。香りはほどよく、きれいな旨味があって、喉越しが軽くて、僕の好みにぴったりだった。顕統くんに天才の片鱗を感じましたよ」。
「東京では純米嗜好が強く、本丸は反応が思わしくない」という高木さんに倉庫に案内されると、本丸が山積みになっていたので、大喜びで買い取り、この日を機に特約契約を結んだ。

店内
スタイリッシュな店内には10台の大型冷蔵庫が設置され、年間700種類の日本酒、本格焼酎、和リキュールを扱う。都心の至便な場所にあり、買い物しやすい。カウンターも設けられ、角打ちスタイルで日本酒を楽しめる。

「酒を店に並べてすぐ、『中取り純米はないの?』なんて言う生意気なマニアが飛んで来たけれど、本丸はあっという間に完売。うちの店にとって本丸は、短期間で爆発的に売れた初めての酒。はせがわ酒店初のスマッシュヒット達成に、胸が熱くなりました」。
十四代は全国区の人気になり、はせがわ酒店は十四代を扱う店として、ファンや飲食店から一目置かれる存在になっていった。
「翌96年に出してきた搾りたての生酒、ふなくち(後に、ふなだれと改名)も衝撃だった。フレッシュさと旨さ、甘さ、後口の軽さと、全てのバランスが取れていて、気絶しそうになるぐらい旨かった。一生忘れられない酒。アキは天才だと認めざるをえなかったよ」と、30年近く前に飲んだ酒のことを長谷川さんは熱っぽく語る。

「取り引きが始まって4、5年目かな。帝国ホテルのツインルームの一室に、アキと二人で泊まったことがあってね。いつか都心の高級ホテルと取り引きしてもらえるようになろう!一人で一部屋取れるぐらい稼げるようになろう!と誓い合ったのは懐かしい思い出です」。

二人の誓いは、ほどなく実現。「十四代」は、ファン垂涎のスター銘柄としてトップを邁進。一流店として認められるようになった長谷川さんは、麻布十番店を皮切りに、都心の一等地へ多店舗展開をスタートした。
「日本酒で食えるようになったら、都心に店を出そうと心に固く決めていました。都心の目立つ場所に酒が並んでいると、蔵元が喜んでくれる。彼らの笑顔を見ると、僕も幸せな気持ちになるんです」。

いつもビシッとスーツで決めている長谷川浩一さん
いつもビシッとスーツで決めている長谷川浩一さん。時に蔵元に苦言を呈しながらも、惜しみなく愛情を注ぐ。面倒見のいい親分気質で知られている。サミット晩餐会で提供される日本酒の選定、FIFAワールドカップ公式日本酒の世界同時発売、市販酒の大規模な競技会「SAKE COMPETITION」の主催など、日本酒を盛り立てる活動にも精力的に取り組んできた。

高木さんは“蔵元杜氏”の先駆けと言われるが、「十四代は、“銘柄と人がセット”で語れる初めての存在」と、長谷川さんは独自の視点を披露する。それまで酒は、“味わいと地域特性”で語られることが多かったが、高木さんの登場で“人の物語”が加わった。「十四代」がスター銘柄になった要因は、酒の素晴らしさはもちろんだが、若い後継ぎの物語が加わったことで、飲み手の心に強くアピールしたのではないかと長谷川さんは分析する。

“銘柄と人がセット”で語れるのは、蔵元杜氏が造る酒だけではない。たとえば「醸し人九平次」(愛知)蔵元の久野九平治さんや「新政」(秋田)蔵元の佐藤祐輔さんは、杜氏は別に立て、自分は企画・立案する立場で、自らの哲学や美意識を投影させた酒をプロデュース。そんな個性あふれる魅力的な酒が、「十四代」以降には次々と誕生しているのだ。音楽ファンがアーティストに惹かれるように、“銘柄と人がセット”になった酒は、感情移入しやすい。その結果、現代の日本酒シーンは、熱烈なファンや日本酒女子の“推し活”で、かつてない熱い盛り上がりを見せている。

「酒造業が斜陽産業と言われるようになった時代に、十四代の成功物語は、後輩蔵元の励ましになり、酒のバラエティーが豊かになって、我々小売業は活性化しました。トップブランド十四代を造り続ける顕統くんは、はせがわ酒店の大恩人であると同時に、日本酒界の偉大な功労者です」。

デビューから30年、人気が衰えないのは、嗜好品では稀有なこと、と長谷川さん。
「顕統くんは泥臭いところは見せないけれど、すさまじい努力をしている。初年度の中取り純米は心に響かなかったけど、30年後の24年に出した中取り純米は、旨くてぶっ飛んだ。進化させてきたからこそ、30年トップでいられる。十四代は信頼できるブランドであり、顕は男が惚れる男。天性の人たらしなんだよ」。コワモテ社長が慈愛に満ちた表情で微笑んだ。

十四代
十四代は数が限定されるため、オンライン店での会員向け抽選販売など限られた販売となっている。右から、「七垂二十貫」、「別撰諸白」、「荒走り上諸白」、「大極上生 播州山田錦」、「本丸」、「純米大吟醸」、「中取り純米 厳選」。

はせがわ酒店
亀戸本店(改装のため休業中で、仮店舗カメイドクロック店で営業中)のほか、麻布十番店、GranSta東京店、東京スカイツリータウン・ソラマチ店、パレスホテル東京店、日本橋店、カメイドロック店がある。本社は港区芝。

撮影は日本橋店。東京都中央区日本橋本町2-1-1武田グローバル1階 【電話】03-6262-3111

※次回は、山口の酒「東洋美人」の物語をお届けします。

※文中の高木さんのお名前の漢字「高」は、正しくは“はしごだか”です。ブラウザ上で正しく表示されない可能性があるために「高」と表示しています。会社名は「高木酒造」です。

文:山同敦子 撮影:たかはしじゅんいち

山同 敦子

山同 敦子 (酒ノンフィクション作家)

東京生まれ、大阪育ち。出版社勤務時代に見学した酒蔵の光景に魅せられ、フリーランスの著述家に。土地に根付いた酒をテーマに、日本酒や本格焼酎、ワイナリーなどの取材を続ける。dancyuには1995年から執筆し、日本酒特集では寄稿多数。「十四代」には94年に出会って惚れ込み、これまで8回訪問し、ドキュメントを『愛と情熱の日本酒――魂をゆさぶる造り酒屋たち』(ダイヤモンド社)、『日本酒ドラマチック 進化と熱狂の時代(講談社)』などに収録。