
十五代目蔵元の高木顕統さん(2023年に辰五郎を襲名)が1994年に世に出した「十四代」。30年を経た今も人気は衰えることはなく、最も入手困難な銘柄のひとつと言われる。全国53軒の特約酒販店のうち福島県郡山市の「泉屋」は、「十四代」のデビュー年から直取引する最古参の特約店であり、店主の佐藤広隆さんは、高木さんに最も近いスタンスでサポートしてきた。蔵元と酒販店主、共に1968年生まれの二人は、どんなふうに出会い、親交を重ねてきたのだろう。
「泉屋は厳しいことも言うけれど、指摘が的を射ているから納得できるんだよ。僕が造りたいのは、泉屋の広隆に“旨い”と言わせる酒なんだ」。
ある夏の日、山形市内の酒場で、高木顕統さんが同席した蔵元たちに発した言葉にハッとした。流行に惑わされず、自分の味覚だけを信じて、孤高の酒造りを歩んできた日本酒界のトップスターが、一人の酒販店主の評価を意識している。そのことを意外に思ったのだ。
高木さんに、「泉屋に旨いと言せる酒を造りたい」と言わせる「泉屋」とはどんな店で、店主の佐藤広隆さんはどんな人物なのだろう。
東北の玄関口、福島県郡山市。「泉屋」はJR郡山駅から約3km。住宅地が広がる静かな環境で、飲食店や店舗などは見当たらない。「最悪な立地ですね。特別な何かがないとお客さんは来ないでしょうと言われたことがあります」と、1963年に26歳で店を創業した広隆さんの父、隆三さん(2010年逝去)が話してくれたことがある。
そんな不利な立地でありながら、「泉屋」はいつも来店客であふれ、活気がある。“特別な何かがある”ということだろう。店内は掃除が行き届き、酒瓶はピカピカに磨かれ、12人のスタッフがてきぱきと対応してくれる。扱っているのは日本酒110蔵、焼酎15蔵。日本ワインやクラフトビールもある。地酒専門店として日本酒の扱い数は最多クラスというわけではない。だがその99%は酒蔵との直取引で、「十四代」「飛露喜」「而今」など、特約店数を絞った人気銘柄も含まれる。蔵元から信頼されている証だろう。
2代目店主の佐藤さんは、福島県の日本酒を盛り立てる“チーム福島”の旗振り役として、また全国の若手蔵元の良き相談役として存在感を放ち、「和醸和楽」や「仙台日本酒サミット」など蔵元と酒販店が協力して主催するイベントの影の仕掛け人としても手腕を発揮している。
「蔵元さんが活躍するお手伝いをして、お客さんに楽しんでもらうのが僕の役割だと考えています。酒屋の仕事、サイコーです!」といつも溌剌と元気な佐藤さん。仕事に自信と誇りを持てるのは、様々な人とのご縁のおかげ。なかでも大きな転機になったのは高木さんとの出会いだと言う。
出会いは1994年5月、山形県の温泉旅館。2人は25歳だった。高木さんは、前年まで東京の伊勢丹系の高級スーパーに勤めていたのだが、「杜氏が引退を申し出た」という父からの連絡で急遽退職して山形に帰郷し、杜氏代わりに初めての酒造りを終えたのが94年3月。その直後から、自ら醸した新しい銘柄「十四代」を、東京・四ツ谷の地酒専門店「鈴傳」と多摩の「小山商店」の2軒と直取引し始めたところだった。
奇しくも佐藤さんも、父の病を機に急遽「鈴傳」での修業を切り上げて福島に帰郷し、父を補佐して「泉屋」を営むようになってちょうど一年。「鈴傳」で修業した仲間たちと、山形県の酒蔵「出羽桜」を見学したあとで、近くの天童温泉で宴会をすることになった。いわば「鈴傳」の同窓会である。
その宴会に高木さんが加わったのは、メンバーの一人が高木さんと東京農大の同期生という縁からだった。「近くに酒を造り始めたばかりの同期生がいると言うので、宿に呼ぼうということになったんです。するとひょろりと痩せた奴が、自分で造った生酒を一本持ってやって来た。その酒の味は忘れられません」と興奮気味に話す佐藤さん。その酒とは、「十四代」純米吟醸 中取り雄町。「飲んだ瞬間、新鮮な果物を齧(かじ)ったときみたいに香りや味が口の中で炸裂したんです。甘味と酸味、香りのバランスが絶妙で、とてつもなく旨かった。こんな衝撃は初めてでした。しかも高木は面白いことを考えている弾けた奴で、メッチャ気が合うんです」。
別れ際、高木さんは佐藤さんに「酒、頼むよ」と声をかけた。直取引を打診したのだ。佐藤さんは酒には感動したものの、取引は店主である父・隆三さんに相談するべきと判断。郡山に帰って父に報告し、高木さんから酒を送ってもらったところ、父も「こんな酒、飲んだことない!」と驚いた。こうして、出会ってすぐの94年5月下旬には、2種類の純米吟醸から取引が始まった。
銘柄の知名度はなかったので、佐藤さんは店頭で試飲販売を行なったり、酒の会を開き、「新しいお酒です」「僕と同い年の蔵元が自分で造りました」などと訴えて、「十四代」という名前を知ってもらおうとした。
当時、店で最も人気があったのは、父が仕入れた淡麗辛口タイプの新潟の酒で、客は父と話したくて来店する。広隆さんは“若い兄ちゃん”扱いされるのが悔やしかった。「でも、十四代は僕が初めて自分で仕入れた銘柄です。皆さん、僕の酒を飲んでみてください!という気持ち」。仕事のモチーベションはグンと上がったことだろう。
泉屋の基礎を築いたのは、父・隆三さんである。“地酒の父”として日本酒ファンや蔵元たちに敬慕される「甲州屋」店主の児玉光久さんに誘われて「宮川会」※で学び、福島県外で初めて直取引できたのが「出羽桜」。奇しくも佐藤さんが高木さんと出会うきっかけになった蔵元だ。
出羽桜は大好評だったが、扱う銘柄を増やす必要があり、なかでも当時評判だった新潟の酒は不可欠だと隆三さんは考えた。だが人気銘柄には全国から取引依頼が殺到し、蔵元に会うこともかなわなかった。何年も酒蔵に通い続け、少しずつ取引数を増やした。「越乃寒梅」は13年を要し、「雪中梅」と「千代の光」は広隆さんを伴った時に初めて面会を許された。「後継ぎがいることで安心してくださったのでしょう」と語る隆三さんは、2009年に改装した店で生き生きと働く息子の姿を眺めながら話してくれた。蔵元が新規の取引先に対して慎重なのは、次の世代まで末永く共に歩めるパートナーか見極めようとしているのだろう。
造り終えたあと入院するほど命懸けで造った酒を、高木さんが会ったばかりの佐藤さんに託したのは、単に同い年の気が合う相手だったからではないはずだ。地酒の販売に情熱を燃やす佐藤親子と、今後も共に歩いていきたい。そんな思いの表明だったのに違いない。
※宮川会/流通コンサルタントの宮川東一さん(1928年~2020年)が主宰していた酒販店のための勉強会。酒ディスカウントやコンビニエンスストアが席捲し始めた1980年代、資本力のない個人商店が生き残る道を探ることをテーマとした。メンバーには甲州屋、かき沼、三ツ矢酒店(以上、東京)、望月商店(厚木)、酒舗よこぜき(富士宮)、カネタケ青木商店(仙台)、ひらしま酒店(北九州)など地酒専門店の先駆けとなる数十軒が参加していた。
※次回も引き続き、「泉屋」佐藤さんと髙木さんの物語を紹介します
※文中の高木さんのお名前の漢字「高」は、正しくは“はしごだか”です。ネット上で正しく表示されない可能性があるため、「高」と表示しています。会社名は「高木酒造」です。
文:山同敦子 撮影:たかはしじゅんいち、山同敦子