
十五代目の高木顕統さん(2023年に辰五郎を襲名)が造る、洗練された美酒として人気の「十四代」。購入できるのは、全国53軒の特約酒販店のみだが、そのうちの一軒、福島県郡山市「泉屋」店主の佐藤広隆さんは、「十四代」がデビューした1994年から、高木さんの良きパートナーとして支えてきた。前回に続いて、酒販店主と蔵元、同い年の二人の親交について紹介したい。
「十四代」がデビューした1994年。福島県郡山市の酒販店「泉屋」の佐藤広隆さんは、同じ25歳の高木さんと出会い、取引が始まった。「初年度に造ったのは一升瓶3,000本程度でしたが、無名の新しい銘柄だったから売り切るのは大変で。『泉屋』の広隆とお父さんの隆三さんには感謝の思いでいっぱいです」と高木さん。
「僕にとっても最初につきあった蔵元が高木だったのは、ラッキーでした。蔵元は地方の名士が多く、酒屋にとって近寄りがたい存在です。特に父はかつて酒蔵で働いていたので、蔵元は“旦那様”。雲の上のお方から酒を分けていただく気持ちだったと思います。ところが僕らは、会った時から友達になってしまった。“気心の知れた同級生が造ったメッチャ旨い酒を応援する”という気持ちに近かった」と佐藤さん。高木さんは蔵元杜氏として、佐藤さんは酒販店経営者として、2人はほぼ同時にスタートを切り、共に歩み始めたのである。
翌年の冬から、佐藤さんは毎年、泊まり込みで高木酒造に訪れるようになる。米を洗う程度の手伝いもしたが、主な役割は冗談を飛ばしたり、先代蔵元である高木さんのお父さんの晩酌の相手をすること。「高木が一日中、蔵に籠って酒造りだけにのめり込んでいることがわかって、ガス抜きをしてやりたかった。傍に寄り添うぐらいしかできないけれど、少しでも力になりたいと思ったんです」と佐藤さん。
「広隆は最高の相談相手でした。彼は明るいし、ノリがいいけれど、物事を深く考えていて、意見を求めたら即答してくれる。初年度、僕は心労で酒造りが終わったあとに入院してしまいましたが、2年目の酒造りの時期には彼が来てくれるようになって精神的に楽になりました」と高木さん。酒造りが終わった春には、高木さんが「泉屋」へ遊びに行き、佐藤さんの両親と旅行を楽しむこともあった。2人とも独身だったこともあり、頻繁に会って家族ぐるみで交流を続け、心を通わせていった。
2年目の1995年に発表した本醸造「十四代 本丸」(現在は特別本醸造)はコスパの良さで大ブレイク。当時、高品質な酒は4合3,000円以上の大吟醸とされるなかで、一升2,000円を切る「本丸」は価格破壊と言われ、全国で上質で安価な酒が造られていくきっかけになった。
この「本丸」という名前は2人で名付けたという。初年度の酒はすぐに完売したので、「一年中売れる定番になる酒が欲しい」と佐藤さんがリクエストすると、「2,000円以下で売りたい。どう思う?」と春に高木さんが店に持参したのが本醸造酒。「ほのかに吟醸香を感じる上質な酒で、十四代らしさもある。コイツ天才だ!と思った」と佐藤さん。カジュアルラインでも、高品質で、感動するほど旨い酒を造る技量に感服したのだという。
定番をめざすには愛称で呼ばれる酒にしようと酒名についてアイデアを出し合い、たどりついたのが、城の中心や核心の意味で、本醸造にもつながる「本丸」。目論見通り、「本丸」は「十四代」の名を広める定番になる。
3年目には、山田錦や雄町、愛山、八反錦など、酒米の異なる純米吟醸のシリーズを発売。その頃、同じ蔵が酒米違いで酒を造る例はほとんどなく、鮮やかな色違いのラベルも注目を浴びるのだが、これも二人の合作だ。
「ワインで品種による違いを楽しむように、日本酒も酒米の個性を味わって欲しくて、売り方について広隆に相談に乗ってもらった」と高木さん。高木さんの意図を理解した佐藤さんは、月ごとに異なる酒を販売する「出荷カレンダー」の提案をした。たとえば、さっぱりとした味の八反錦は暑い時期の8月、秋に味が乗る山田錦は10月といった具合だ。「広隆の販促手腕は抜群なんです」と高木さんは評価する。
佐藤さんは青山学院大学在学中に、広告研究会に所属していた。子供の頃から“酒屋の息子”と呼ばれることに引け目があり、店を継ぐまでは好きなことに打ち込もうと心に決めていた。小学生から大学生まで夢中になったのは野球。インカレリーグで首位打者を獲得するほど活躍するが、野球漬けの人生だったと気が付き、大学で広告研究会にも入って真剣に取り組んだ。サークル活動で磨いたセンスは酒販店の仕事で開花することになるのだが、学年を重ねると広告業界に憧れを抱くようになる。
そんなとき父から「無料で旨いメシが食えて、酒が飲めるぞ」と、福島県出身の好事家が主催する利き酒会の知らせが来た。当時はバーボンが流行し、佐藤さんがカッコイイと思っていたのはバドワイザー。「日本酒には全く興味はなかったのですが、金欠なので“無料”に惹かれて行ったら、びっくりするぐらい酒が旨かった。確か、「真澄」の夢殿や「〆張鶴」の金印などの大吟醸が並んでいたと思いますが、日本酒にハマってしまったんです。今思うとオヤジにはめられたのかもしれません」。隆三さん、なかなかの策士だ。息子の操縦法を心得ている。
学生時代の佐藤さんの住まいは、父が参加する「宮川会」(※第5回に説明あり)の仲間「望月商店」に紹介されたアパート。アルバイト先として父が決めてきたのは、長年取引をする「出羽桜」蔵元に紹介された四ツ谷の酒販店「鈴傳」。社長の磯野元昭さん(故人)は、酒販店組織「全国久保田会」の会長を務めるなど影響力のある人で、店では「出羽桜」創業家一族の仲野さんが、修業のために働いていた。
「オヤジがお世話になっている業界の実力者で、周りをガッチガチに固められている。ここで断れば父の評価が下がることは明白で、嫌とは言えなかったんです」。義理で始めたアルバイトだったが、「鈴傳」の経験や出会いが、佐藤さんを酒の道へ猛進させる。
「鈴傳」では仕事が終わると、好きな酒を一杯飲んでもいい決まりだったので、毎日、違う酒を飲んで味を覚えた。オーラを放つ“地酒の師匠”磯野社長に何か質問したかったが、知識がなくて言葉が見つからない。「社長と話したい、その一心で、片端から日本酒の本を読み、バイト代が溜まると地酒が揃う居酒屋で安めの酒を飲みまくりました」。
1992年3月に大学を卒業し、4月に「鈴傳」に就職。朝9時から夜9時まで働いたあと、店で人気の一升瓶を1本買って同僚と共に四ツ谷の土手に上り、袋入りの豆をつまみに毎晩飲んだ。同僚は体調を崩して中断したが、佐藤さんは毎晩一人で一升瓶を空けた。「舌ではなく、体で味を覚えようとしたんです。このときの体験がいまの僕のベースになっていると思います」。
このころ高木さんは、伊勢丹系列の高級スーパーで酒売り場を担当しながら、憧れの「鈴傳」に頻繁に訪れて学び、酒場の店主たちの好意で日本酒を比べ飲みして味を覚えていった。多くの接点がありながら東京ではニアミスだったが、佐藤さんが共に酒を飲んだ同僚が高木さんの大学の同期という縁で、2年後に出会う(このときの話は連載第5回で紹介)。
「親友であり、最高のビジネスパートナー」と認め合う2人。運命の出会いで化学反応を起こした若い二人は、飛躍的な進化を遂げるのである。
※その後の2人については、この連載の後半で紹介する予定です。
※文中の高木さんのお名前の漢字「高」は、正しくは“はしごだか”です。ネット上で正しく表示されない可能性があるため、「高」と表示しています。会社名は「高木酒造」です。
文:山同敦子 撮影:たかはしじゅんいち、山同敦子