
力強さと躍動感ある酸で、圧倒的な存在感を放つ島根の酒「王祿」。独り我が道を歩む「王祿」6代目蔵元で杜氏の石原丈径(たけみち)さんだが、「十四代からは多くの事を教えられ、救われた」と言う。「十四代」と「王祿」。対照的な味わいの酒を造る蔵元の物語を紹介する。写真は、2014年12月、麹室で種麹をふる蔵元杜氏の石原さん。低い位置からふるのが石原流。
王祿酒造では、長年、出雲杜氏が酒造りを担ってきた。
「酒造りは聖域だと思っていた。いや、聖域だというのを言い訳にしていただけで、心の奥では、造りに関わることはずっと考えていたことだったかもしれん」と石原さん。
心の奥に、小さな種火のようなものが点(とも)ったのは、ラベルデザインを依頼していた地元のデザイン事務所の女性が持ってきた雑誌『シンラ』(新潮社)1994年10月号を見た時だった。「こんな酒蔵もあるんですね」とその女性が示した記事は、十四代のルポルタージュだった。そこには、石原さんより3歳下の蔵の跡取り息子が、杜氏代わりに自分で酒を造っている様子がカメラマンの名智健司さんの写真で克明に紹介されていた。
「記事を見た時は、跡取りが自分で酒を造らんといけんとは、奇特な蔵もあるもんだと思ったんだ。そのくせ、これからも季節労働者の杜氏や蔵人たちに酒を造ってもらうことに、自分もどこかで疑問を感じていたし、危機感を持っていなかったわけではないんだ」。
日本酒業界の動きに疎く、「十四代」が評判になっていることを知らなかったという石原さん。だが、季節労働者として酒蔵に働きに来る杜氏や蔵人は減少し、永続が望める制度ではないことは感じていた。問題はそれだけではない。日本酒マーケットは年々縮小している。小さくなったマーケットで、従来のままの酒造りを続けていくとしたら、いずれ小規模な酒蔵は淘汰され、残るのは資本力のあるナショナルブランドだけになってしまう。小規模蔵は、ナショナルブランドが手がけていないような新しい挑戦をしていかない限り、生き残っていけないのではないか。だが、失敗のリスクを伴う新しい酒造りを、季節雇用者に課すことはできない。いずれは家業を背負う蔵元が、責任を持って酒造りに挑戦し、新たな表現をしていくしかないのではないか……。
「この記事で紹介されている高木さんは、俺たち小規模蔵の危機感を敏感に感じ取って、新しい世界を切り拓いた先駆者だ。ある取引先の“自分で造ったらいいのでは”という言葉を聞いて、十四代の挑戦と、俺がこれまで心の奥底で考えて来たことがリンクして、ボンと火がついた。生き残るためにも、さらに上に行くためにも、俺が自分で造るしかないんだ!って」。


覚悟を決めた石原さんは、突然、酒造りの現場に入ると宣言した。やるからには、とことん究めようとする石原さん。定評ある広島県立工業技術センター(現在の食品工業技術センター)で、理論と実践を学ぶ。他県の蔵元を受け入れた前例はなかったそうだが、石原さんの熱意が通じたのだろう。ビジネスホテルに泊まりながら研修を受け、終了後は、さらに広島県杜氏組合の研修にも参加。「千福」を造る三宅本店の寮に泊まり込んで、麹造りを学んだ。
そして1995年の冬(平成7酒造年度)からいよいよ蔵入り。蔵人たちと同じように仕込み蔵で寝泊まりし、食事も一緒にとった。
杜氏や蔵人たちに理解してもらうには、その方法しかないと考えたのだ。
「ワシ、やって見せますけん」と、手本を示してくれたのは、代師(麹造りの担当者)の玉木裕光さんだった。
「玉木さんは65歳にして筋肉ムキムキ。60kgぐらいある重い暖気樽(だきだる)を肩にひょいと担いで、階段をダダダッと駆け上がる。空き時間には梁にぶら下がって懸垂し、麹室のなかで腹筋運動をする。俺も肝(きも)見せたらなあいけんと、力仕事や骨を折れる仕事を率先して取り組んだよ。みんなは、いつか音を上げると思って見ちょっただろうけど、俺の真剣さが伝わったと思う」。
だが、5代目蔵元で父の石原充(じゅう)さんには、長男のしていることは、理解ができなかった。充さんは東出雲町の商工会会長を長年務め、町に尽くしてきた地元の名士だ。我が町の酒として「王祿」の知名度は圧倒的で、全国新酒鑑評会で金賞受賞するなど評価も高かった。それが、突然、大金を投じて冷蔵庫を買い、出麹室を新設し、王冠を変え、猛烈な勢いで蔵を変えていったのだ。造る量は多い時で2000石、石原さんが家業に入った時点でも1000石あったところ、どんどん量も減らしていった。
「オヤジは俺が気がふれたと思ったんだろう。正常だとわかったら、山中さんのせいになった。『お前は、山中っちゅう詐欺師に騙されちょる!』と言われ、怒った俺は、何言っちょおー、表へ出れ!! と、毎晩、夕食のときは取っ組み合いのケンカよ」。
毎晩、激しく争う父と子の間に入って上手におさめるのが、同じ町内からお嫁に来た、小学校、中学校で同級生だった幼馴染のちあきさんだった。
「俺は、蔵が消滅してしまうと思って窒息しそうで、冷静にはなれんかったんよ。でも同じことを言うにも、ちあきが話すと、オヤジもとりあえずは話を聞くんだよな」。
アイドルのようにチャーミングなちあきさんだが、芯は強い。しかも、すぐに爆発して喧嘩腰になる石原さんとは違って、相手のことも受け止めながらも、自分の意見(ほとんどが夫の意見)を通せるしなやかさも持ち合わせる。石原さんは、最高のパートナーを妻として迎えることができたのだ。

取引する酒販店は、地元に100軒ほどあったが、どの店も冷蔵庫はない。それまでは、配達に行き、減った数を補充する“置き配”の方式で販売していたのだが、売れ残った酒はどれも黄色く変色していた。酒蔵で冷蔵保存しても、販売店では常温で放置されるなら意味がない。今後、地元の取引はやめると決めた石原さん。夫婦で一軒ずつ訪ねて行って、すべての酒を回収して回った。その際、石原さんは無言で酒をトラックに積み込んでいくだけ。頭を下げ、「今までありがとうございました。すみませんが、おつきあいは、これまでにさせてください」と説明するのは、ちあきさんだ。
相手は烈火のごとく怒り、「今後、頭下げても絶対酒売っちょらんけんな!」「二度と敷居を跨がんでごせ(くれ)!」と伝票を投げつけられ、泣きながら頭を下げ続けるちあきさん。石原さんは、鬼の形相で「泣くな! 次行くぞ!」とトラックを出す。こうしてそれまでの地元の取引は、ほぼすべて廃止してしまったのだ。
「飲んでくれる人が酒を飲み切る瞬間が、その酒が命をまっとうするとき。その最終段階まできちんと面倒をみたい。でもそれは蔵にできることではない。だからせめて、俺の思いを受け止めて伝えてくれる人にバトンタッチしたいんよ」。
山中酒の店一軒から始まった地酒専門店との付き合いは、その後、少しずつ増えていった。-5℃の冷蔵庫の完備は条件にするものの、知名度や規模は関係ない。決め手は「チーム王祿」の仲間になれるかどうかだと石原さんは言う。

筆者が王祿酒造の存在を知ったのは98年。東京・多摩の「小山商店」(連載第7回で物語を紹介)に「無名だけどセンスのいい注目の若手が造っている」と、「渓」の原酒を推薦され、一口飲んで、渓流のように清々しく、みずみずしい酸が駆け抜ける凛々しい味わいに惚れこんでしまった。これまで味わったことのない個性があり、造っている人に会ってみたいと思わせる魅力を放っていたのだ。店主の小山喜八さんは当時、「東京で扱っているのはウチだけ」と言っていたが、小山さんも酒と石原さんに惚れぬいて、粘り強く交渉した末に、ようやく取引にこぎつけたばかりだったことを、のちに石原さんから聞いて知った。
小山さんは96年にお客さんが持ち込んだ「出雲麹屋」を飲んで気に入り、その翌日に都内で開かれた島根県酒造組合主催の酒のイベントに王祿が出展しているのを発見(石原さんは父のメンツを立てるため仕方がなく参加したそうだ)。試飲して感動した小山さんは、その日の深夜バスに飛び乗って島根まで行って王祿酒造を訪問。石原さんが「東京は遠い。酒を出すつもりはない」と丁重に断っても、短期間に何度も繰り返し蔵を訪ねた。石原さんも東京の小山商店を訪れたが、店の規模が大きすぎると、改めて辞退。だが「大事に売っていく。東京の親と思って、どうか信用してくれないか」という小山さんの言葉で、頑(かたく)なだった石原さんの気持ちがほぐれ、6軒目の特約店として取引することになったのだという。
石原さんが「チーム王祿」と呼ぶ特約店と取引に至るまでのいきさつはそれぞれ異なる。だがすべてのメンバーは「王祿」に惚れこみ、石原さんの思いを共有する仲間なのだ。
95年から酒造りを始めた石原さんは、品質の向上をめざして、製造を三分の一の320石まで落とした。目が行き届く範囲は、それが限界だと思ったのだ。初年度は杜氏や代師のやり方を見よう見まねで取り組んだが、大学で専攻した最適制御理論を元に現状を分析し、検証しながら、徹底的に独自の方法に変革。98年に白石杜氏が引退し、杜氏に就任した。
酒造りの時期は、外の世界との交渉を絶ち、外部の立ち入りは許さない石原さんだが、特例としてこれまでに2度、仕込みの様子を見せてもらったことがある。2014年の冬の日、仕込み蔵に仁王立ちする石原さんは、髪を刈りこみ、髭を蓄え、寄らば切るぞ!と言わんばかりの結界を張りめぐらせているように感じた。
蒸した米を冷ます放冷作業中に、おそるおそる近づいて質問すると、「このあと蒸し米を醪(もろみ)に投入し、櫂を入れた直後の温度を8.0℃と決めている。いま、そのために最適な温度に下げている」と説明。誤差はプラスマイナス0.1℃まで。0.2℃は許さないという。それほどの精度が必要なのか。
「この程度でいいなんていう態度は、絶対にあってはいけん! 手を抜かず、どこまできっちりとやり切れるか。酒造りは自分との闘いなんだ!」と、一喝された。

クライマックスは、搾りと瓶詰めだった。通常、醪を搾ったら、タンク数本分を貯めて保管し、日を改めて瓶詰めをするという工程を経る。仕込みごとのばらつきを調整できるし、作業効率もいい。季節雇用の杜氏が造っている場合は、搾った酒を数か月間タンクに貯めておき、春に杜氏や蔵人が故郷に帰ったあと、蔵元がタンクの酒を火入れし、出荷前に再度火入れしてから瓶詰めするのが、従来の小規模蔵のやり方だ。
だが、王祿では、タンク1本ごとに速やかに瓶詰めをして、ブレンドはしない。その日のうちに-5℃の冷蔵コンテナに運び入れることを徹底している。この方法だと、酒が空気に触れる時間は限りなく短くなり、鮮度は保たれるだろう。しかし様々な工程が分刻みで行われる現場で、スケジュール管理や人員配置の難しさは想像を絶する。蔵のなかはピリピリとした緊張感が走り、搾って瓶詰めした酒を冷蔵コンテナに納めるまでの数時間の間、息を詰めて見学していた。しかも、冷蔵庫に入れたらただ出荷を待つのではない。出荷順は、酒を搾った順ではなく、仕込みタンクごとに試飲した上で決め、数か月から数年間、熟成するのは常だという。
「そんなやりかたをしていたら、いつか蔵はつぶれるぞ」。これまで石原さんは、蔵元たちに否定的なことを言われてきた。ところが、2002年、蔵元が多く招待されたあるパーティーで、石原さんに声をかけてきた「十四代」蔵元杜氏の高木顕統さん(2023年に辰五郎を襲名)は、「王祿さん、スゴイことやってますね!全部、無濾過で、ブレンドもしてないんですって。取引する酒屋さんはたった十数軒とか、スゴイなあ」と笑顔を浮かべている。初めて自分を理解してくれる同業者に会ったと思った石原さん。しかも相手は、自分が酒造りをするきっかけになった、憧れの高木さんだ。
「雲の上の人だと思っていたけれど、気さくに話してくれるんだ。いつか高木さんとじっくりと話してみたい」。そう考えた石原さんと、高木さんも思いは同じだったようだ。07年、石原夫妻は高木さんに誘われて高木酒造を見学してきたと、後日報告をもらった。

ちあきさんは、「タケ(丈径)さんたら、十四代の仕込み蔵を一目見て固まってしまって。呆けたみたいにスゲエ、スゲエとしか言わないんですよ」と笑う。なにがスゴイと思ったのか、石原さんに聞いてみると「設備は素晴らしく、とてつもなくクリーンで、隅々まで磨き上げられている。それでいて冷たい感じではなく、蔵自体が生き生きとしている。社員の眼差しが輝いていて、動きはキビキビして気持ちがいいんだ。スゴイものがここで生まれちょるということが、伝わってきたんよ」。
そんな石原さんを見て、高木さんは「王祿さんが来られるので、慌てて大掃除したんですよ」とにこやかに話しかけた。緊張がほぐれた石原さんは、実際はどんなときも整っていることを察して、高木さんの気遣いにうるっときたという。
蔵見学のあと、母屋の座敷に案内されると、14代目蔵元の先代・辰五郎さんがどっかりと座って待っていて、「よくおいでくださった。王祿さん、あなたは素晴らしい酒を造っておられると、息子から聞いていますよ」と、包み込むような笑顔を浮かべていた。「いつか蔵を改築されるなら、この資料を参考になさったらいい。運気が開けると思います」と渡してくれたのが、尺貫法で描かれた古い図面だった。学究的な先代らしく、古い文献を元に、独自で調べたらしい細かなメモ書きも添えられていた。その瞬間、石原さんは涙があふれそうになるのを必死でこらえたという。
「実はその頃、俺は崖っぷちにいたんよ。売り上げは伸びず、
命が躍動するような溌剌とした飲み心地。いつ飲んでも期待を裏切らない完成度の高さ。唯一無二の圧倒的な世界観を持つ「王祿」。それは知力と体力、気力を振り絞り、極限まで自分を追い込みながら半年をかけて生み出され、大切に育まれた末にようやく出荷される。
「険しい道を選んでしまったと思う。だも(だけど)、この道を歩んで来たけん生き残って来られた。この道があると示してくれたのは、高木さんなんだ」と石原さん。先陣を切って、自ら酒を造るという道を示し、「十四代」がそれまでの酒になかった新しい魅力があったからこそ、多くの後輩蔵元たちが後に続く道を選んだ。もし高木さんが、あのとき(93年)に、酒を造り始めていなかったら、多くの小規模蔵は消滅していたはずだと石原さんは断言する。

高木さんの酒業界への貢献は測り知れない。だが、高木さんは自分一人が賞賛されるのは当たらないと言う。「創業して四百十余年。様々な困難にあっても代々の先祖たちが家業を守り続けてくれたなかで、たまたま15代目の僕の代で日の目をみただけです。十四代の味は自分だけで造ったものではなく、この土地と先祖たちの思い、支えてくれる社員、家族がいて実現できたものです。さらに改良を重ね、これからは次世代に繋いでいくことにも力を注いでいきたい」。歴史ある家業を背負う重責と誇りが伝わってくる言葉だ。
500年前から続く旧家が醸す「王祿」の酒造りも、次世代へと受け継がれようとしている。6代目蔵元・石原さんが酒造りを始めた95年に生まれ、松江高専(国立松江工業高等専門学校)を卒業した次男の克奎(まさふみ)さんは、25年現在「酛屋(もとや)」として酒母を担当している。いずれは丈径さんが造った酒に「T」、克奎さんが造った酒には「M」とラベルに記していくつもりだと、ちあきさんが知らせてくれた。飲み手にとって、親子の酒を比べ飲みする楽しみが増えた。
物腰柔らかい15代目蔵元・高木さん、人付き合いは苦手だという6代目蔵元・石原さん。造る酒も“柔”の「十四代」と、“剛”の「王祿」と対照的だ。だが、自分の信じる酒造りを貫く頑固さ、純粋さは二人共通だ。家業を背負いながら挑戦し続け、次世代へ繋ぐために、さらなるギアを上げる二人。思いが凝縮した二人の酒は、飲み手の魂を激しくゆさぶるのだ。

※次回は、鹿児島で本格焼酎「富乃宝山」を造る西酒造の物語をお送りします。
王祿酒造
島根県松江市東出雲町揖屋484 【電話】0852-52-2010
※文中の高木さんのお名前の漢字「高」は、正しくは“はしごだか”です。ブラウザ上で正しく表示されない可能性があるために「高」と表示しています。会社名は「高木酒造」です。
文・撮影:山同敦子