
色香漂う端正な美酒として人気の日本酒「東洋美人」。蔵元杜氏・澄川宜史(たかふみ)さんは、「十四代」蔵元杜氏・高木顕統さん(2023年に辰五郎を襲名)が“唯一の弟子”と認め、醸造技術を高く評価している人物だ。一方、澄川さんは「酒造りの師匠は高木さんだけ」と言う。5歳違いの蔵元二人の交流物語を紹介する。
筆者が「東洋美人」の存在を知ったのは、2003年。東京の地酒専門店「はせがわ酒店」社長の長谷川浩一さん(連載第12回で物語を紹介)に、有望な若手の酒だと教わったのだ。飲んでみると、香り高く、端正で、どことなく色気が漂う美酒だった。2年ほど後に酒の会で会った蔵元杜氏・澄川宜史さんも、歌舞伎役者を思わせる艶(あで)やかな男前で、渡された名刺に記されていた住所は山口県萩市。碁盤目状に整備された美しい城下町に建つ壮麗な酒蔵で、酒造りをしている澄川さんの姿が浮かんだ。
初めて澄川酒造場を訪問した07年1月。萩駅まで迎えに来てくれた澄川さんの車で一時間以上走って、ようやく到着したのは、島根県との県境に近い山口県の東北端。いくつもの小高い丘と田んぼが広がる人家もまばらな寒村に、赤瓦の小さな酒蔵がひっそりと佇んでいた。05年に市町村合併で萩市に組み込まれたが、それまでは阿武郡田万川町(あぶぐんたまがわちょう)だったという。酒蔵の脇には清らかな小川が流れ、緑豊かな小山を背にした仕込み蔵の前に、酒米・山田錦を刈り取ったあとの自社所有田があった。
それにしても、酒の味わいや澄川さんの姿が醸し出すきらびやかさと、目の前に広がる長閑(のどか)さには、大きな開きがある。
「田舎で驚きましたか?イノシシも猿も出ますよ」と、当時33歳の澄川さん。「こんな過疎地域だから、東京に販路を求めるしかなかったんです。そこで出会った『はせがわ酒店』の長谷川浩一社長や、『磯自慢』蔵元の寺岡洋司さん、『富乃宝山』の西陽一郎さんら、酒造業界でトップを走る大先輩の方々にもまれて、多くのことを学びました」。
蔵元は、いつも人に見られている存在で、言動や立ち居振る舞いはもちろんのこと、服装にも気を遣わなくてはならないことも教わった。
「男なら上を目指さなければいけない。弱音を吐いてはいけない。見栄を張らない奴は男じゃない。男から見て、かっこいいと思う生き方をしたい」と、33歳の澄川さんは胸を張った。“男”を連発する台詞は、ジェンダーフリーの考えが進みつつある現代なら、物言いがつくかもしれない。だが、澄川さんは、この強い上昇志向で、これまで自分を奮い立たせ、心身を磨き、酒質を向上させてきたのだろう。04年、31歳の若さで4代目蔵元を継ぎ、33歳のときには、先輩蔵元たちから、技術レベルの高さで一目置かれる存在になっていた。
澄川酒造場の創業は、大正10(1921)年。大手酒造メーカーに酒を納める、いわゆる“桶売り”で生計を立てていた。澄川さんの父で3代目蔵元・隆俊さんのときに、初めて「東洋美人」銘柄の酒を造るが、製造量はわずか200石(一升瓶で2万本)ほど。主な取引先は、地元のよろず食品店という極小の酒蔵だった。
澄川さんは1973年6月、隆俊さんの長男として生まれるが、蔵を継ぐことを意識したことはなく、将来の展望も明確ではなかったという。父は東京農業大学醸造学科の卒業生だったが、父から同大学の入学を勧められることはなく、酒蔵の子息に設けられている推薦枠も使わなかった。「貧乏蔵で、将来は明るくないと考えた父が、僕に農大を推すことはなかったのでしょう」と澄川さん。だが紆余曲折を経て、2年の浪人生活ののちに東京農業大学醸造学科(現在の醸造科学科)に入学すると、父は喜んでくれた。
農大の醸造学科では、大学3年生のときに、酒蔵に泊まり込んで研修をする制度があるのだが、その研修先が、「十四代」を造る高木酒造だった。父の隆俊さんが、共通の取引先があった縁で、農大卒業生である高木顕統さんに「息子をお願いします」と頼んでくれたのだ。
1996年当時、「十四代」は、それまでの日本酒にはなかったみずみずしい味わいで、センセーションを巻き起こしていた。酒を造った高木顕統さんは、日本酒業界に彗星のごとく現われた若手として注目の的だった。そんな若いスターの傍らで、澄川さんは、たった一人の研修生として酒造りに参加できることになったのだ。
「あの十四代で研修するの!?と農大の同級生たちに羨ましがられましたが、僕にとっては研修先には興味がなかった。そもそも酒蔵に生まれてしまったから、仕方がなく農大に入学し、卒業のための単位を取るには、他人の家に泊まりこんで研修するのも仕方がない。その程度の意識でした」と当時を振り返りながら、“仕方がない”を連発する澄川さん。
だが、23歳のときの一ヶ月の研修が、澄川さんの意識を大きく変えることになったのだ。
高木酒造にとって初めての研修生として受け入れられた澄川さんは、高木家の母屋の一室に寝起きすることになった。その頃、母屋に暮らしていたのは、14代目蔵元の先代・辰五郎さん、紀子さん夫妻と、長男で澄川さんより5歳上の28歳の顕統さん、姉の柴乃(しの)さんの4人。澄川さんの食事は朝、昼、夕、すべて高木家の4人と一緒。研修生というより、高木家の末っ子の扱いだった。
「家族のように接してくださっているのは感じましたが、距離が近すぎて、気づまりで……。研修が早く終わらないかな、とばかり考えていました」。
その頃の山口県では、酒造りは杜氏の仕事。蔵元や後継ぎが自ら酒を造る例はなく、農大を卒業した澄川さんの父も酒造りはしてこなかった。澄川さんは、酒蔵の後継ぎに生まれながらも、仕込み蔵には足を踏み入れたことさえなかったという。いずれは酒蔵に入ることになるとは思っていたが、「酒蔵に入る」ということは、あくまでも父の後を継いで経営者になるという意味だと捉えていた。
だが高木酒造では、杜氏は不在で、後継ぎの高木さんが杜氏に代わって醸造責任者を務めていた。若い後継ぎが杜氏代わりに酒を造っているという噂は聞いていたものの、顕統さんの仕事ぶりは杜氏として蔵人に指示を出すというより、米を運び、米を洗い、蒸して、麹を造る……とすべての工程を蔵人たちの先頭に立って身体を酷使しながら作業していた。
「一心不乱に取り組む姿を、大変だなあと思って見ていました」と澄川さん。
澄川さんは20人ほどの蔵人たちと一緒に、見様見真似で作業をした。酒造りは大学で学んだとはいえ、“試験醸造”だ。「試験管で造るようなものだった」と澄川さん。高木酒造の現場で、米は何キロずつ分けてどう洗うのか、酒粕はどうやって袋に詰めるのかといった細かいことまで目の前で見て、自ら作業できたことは、自分で酒造りをするようになってから大いに役に立ったという。
高木さんは、作業の合間に専門的なことまでマンツーマンで丁寧に教えてくれたのだが、会話の意味をほとんど理解できなかったという。だが、高木さんの言葉は、必死で聞き取って、メモをとった。メモの意味を理解し、その真価に気づくのは、数年先のことになる。
高木酒造は、仕込み蔵と母屋が繋がっていて、澄川さんは最も仕込み蔵に近い母屋の一室を寝室として使わせてもらっていたのだが、深夜になると、誰かが何度も仕込み蔵と母屋を往復する気配がする。そっと様子を見ると、高木さんが麹室や酒母室に入って行くのが見えた。麹や酒母の様子を見に行ったり、なにか必要な作業をしていたのだろう。高木さんの深夜の点検は一日も途切れることがなく、毎晩続いた。澄川さんは気になって睡眠不足気味になったが、高木さんは日に日にげっそりと痩せていき、神経もすり減らしていることが見て取れた。
「僕と5歳しか違わない若い後継ぎが、命を削るようにして、自ら酒を造っている……。想像もしていない驚愕のシーンでした。後継ぎが、こんな思いをしてまで酒を造らなくてはいけないのかと、初めは他人事として傍観していました。でも、顕統さんの必死な姿を毎日見ているうちに、自分の蔵も僕が造らなければならない状況だと気がついたんです。次第に、自分で造ることで未来が明るくなるのではないかと思うようになり、最後には、自分の使命は酒造りだ!僕が造るんだ!と、どんどん意識が変わっていったんです」。
“酒蔵に生まれてしまった”と、自分の運命を嘆いていた若者が、酒造りに希望を見出すようになった。人生観ががらりと変わったのだ。
1996年12月初めから末まで高木酒造での一ヶ月弱の研修を終え、翌97年2月に、初めて、自分の酒蔵の仕込み蔵に足を踏み入れた澄川さん。蔵に立っていると、高木酒造で体験した様々なシーンが鮮やかに蘇ってきた。それは酒造りの場面だけではない。たとえば食事。高木家の食卓には毎晩、刺身の盛り合わせが並び、料理も料亭やレストランで食べるような豪華な内容だったという。
「食に対して意識の高い家だと感じました。顕統さんの鋭敏な味覚は、家庭の毎日の食卓で養われたのだと思います。それが十四代を醸す際の基礎になっていることに、あとになって気がつきました」。
高木酒造の蔵元(先代・辰五郎さん)と、長男・顕統さんによる激烈な酒造り論争も、深く胸に刻まれた。
「夕食のあとは、毎晩、怒号が飛び交うんです。先代は酒造りに関して熱いロマンをお持ちで、学者肌でもある。独自の理論に基づいて、あそこはこうしろ、もっとああしろと、顕統さんに指図する。現場で作業をしている顕統さんにとっては、うるさかったでしょうね。逃げるように仕込み蔵に入っていくと、先代も追いかけていく。理論と現場、どちらにも正義があるから、お二人とも曲げない。高木酒造を心から愛するゆえの論争です。毎晩、僕の前ではバチバチ言い合うのに、争っている姿を、決して従業員さんには見せなかった。気持ちよく働ける職場にすることは、上に立つ者としての心得だとお考えだったのでしょう。論争が始まると逃げ出したくなってしまいましたが、あとから思えば、お二人の真剣な姿を間近で見ることができたのは、得難い貴重な体験だったと思います」。
研修中の澄川さんは、どんな様子だったのだろう。高木さんに聞いてみたところ、「センスがいい子だなと思いました。言ったことに対する理解が早いし、応用が利く。きっと将来伸びるだろうと思って見ていました。その通りになりましたね」と、後輩をほめた。
その後、高木酒造は研修生を受け入れることはなかった。高木さんは「澄川が僕のただ一人の弟子」と公言し、澄川さんは「酒造りの師匠は、高木顕統さんだけ」と言う関係になるのだが、それは単にただ一人の研修生だったからではない。互いに師弟関係を認め合ったのは、月日を経てからのことだ。
澄川酒造場
山口県萩市中小川611 【電話】08387‐4‐0001
※次回も引き続き「東洋美人」の話をお送りいたします。
※文中の高木さんのお名前の漢字「高」は、正しくは“はしごだか”です。ブラウザ上で正しく表示されない可能性があるために「高」と表示しています。会社名は「高木酒造」です。
文・撮影:山同敦子