
ブレンドも、濾過も行なわず、造る酒の約9割は生酒で出荷する島根の酒「王祿」。時流に流されることなく、独り我が道を歩む蔵元杜氏の石原丈径(たけみち)さんだが、「十四代からは多くの事を教えられ、救われた。存在の大きさは計り知れない」と言う。華麗な香りと優しい旨味や甘味で、ファンを魅了する“柔”の酒「十四代」と、力強さと躍動感ある酸で勝負し、圧倒的な存在感を放つ“剛”の酒「王祿」。対照的な酒を造る蔵元の交流物語を紹介する。
しっかりとした旨味、生き生きとした美しい酸、独特の苦みを伴いながらパシッと潔く切れる、疾走感が心地いい酒「王祿」。製造はわずか600石(一升瓶換算で6万本)。取引する酒販店は全国でたった29軒(支店数は除く)だが、酒好きはもちろん、食いしん坊たちにも熱狂的なファンがいる。「王祿」の名の通り、風格ある酒だが、もたつくような重さはなく、みずみずしい酸が駆け抜け、あとに残る塩のようなミネラル感が料理を呼ぶ。一口味わえば、旨い料理を求めて、猛烈に空腹を感じてしまう。「王祿」は主張の強い旨い酒であると同時に、優れた食中酒としても支持されている。
とんがった個性を主張するのは、味わいだけではない。
通常、日本酒は貯蔵前と出荷前の二度火入れして出荷するところ、「王祿」は、一回も火入れを行なわない生酒(本生)が製造量の88%を占める。残りの12%も、搾った後に一度だけ火入れする生詰め酒だ。ただ、生酒は風味が変化しやすいため、取引先は-5℃での管理ができる酒販店に限定している。また、通常は加水してアルコール度数を下げて出荷するところ、「王祿」は、無加水の原酒の比率が全体の58%に上る。
さらに驚くのは、一切のブレンドを行なわないことだ。通常ブレンドは、品質を安定させるために行なうのだが、「王祿」は仕込んだタンク1本ごとに瓶詰め。しかも、搾ったその日のうちに瓶詰めして-5℃の冷蔵庫に収め、すべての酒の裏ラベルにタンクNo.を記している。
生酒、無濾過、無加水、ブレンドを行なわず、搾ったその日に瓶詰めして-5℃に冷蔵保存すること。これらは、すべて「生きた酒を届けたい」という蔵元杜氏・石原丈径さんの強い思いから行なっていることだ。だが、徹底するのは、作業上、大変な手間とストレスを伴う。酒の裏ラベルに、タンクNo.を記すのは、石原さんの決意と覚悟の証(あかし)なのだ。
そもそもなぜ、それほどに石原さんは、“生きた酒”をめざすのだろう。

王祿酒造は、島根県松江市東出雲町揖屋(いや)の街道沿いにある。創業は、記録上では1872(明治5)年だが、それ以前のかなり古い時代から酒を造っていたと推察される。石原家は安土桃山時代の1526年から続く地主で、屋号は「麹屋」。かつて所有する田んぼから採れる余剰の米で麹をつくって販売し、その後、麹と米で酒を醸し始めたと考えられるのだ。原点を見つめるために、現在も「出雲麹屋」という酒も販売している。
創業当初の社名は石原酒造本店で、「松の花」銘柄の酒を造っていた。3代目・石原平太郎氏が、古来中国で酒を“天の美禄゛と呼んだことを知り、「王者の風格を持つ酒でありたい」という願いを込めて「王祿」と命名。社名も王祿酒造に変更したという。地元の人々には、苗字ではなく「王祿さん」と呼ばれ、夏祭りのときには、酒蔵の前に菰樽(こもだる)を積みあげ、ふるまい酒をする。揖夜(いや)神社で行なわれる25年ごとの式年遷宮では石原本家として多額の寄進を行なってきた。
石原丈径さんは、1965(昭和40)年1月8日、5代目蔵元・石原充(じゅう)さんの長男として生まれる。島根県の名門、松江南高校から大阪の関西大学へ進み、制御工学を専攻した。
「蔵を継ぐ気はなかったんよ。オヤジも好きなことをしろと言っちょったし、数学や物理が得意だったけん、技術系を選んだ。この分野なら、どげなことをしても食っていけそうだと思ったんだわ」と、出雲弁で話す石原さん。研究したのは、ファジー制御。当時の最先端の理論で、卒業後の就職先は引く手あまたで、希望したヘリコプター製造会社に内定が出た。
「ところがある朝、起きたら突然、蔵に帰ろうと思った。後で考えても、なぜそげなふうに考えたのかわからんけど、どうしてもそげする(そうする)べきだと思ったんよ」。
酒蔵自体を嫌っていたわけではない。子供の頃、蔵の中は格好の遊び場で、米を蒸す香りや酒のにおいを感じながら、三輪車で走り回っていた。一人っ子の石原さんにとって、蔵人は遊び相手になってくれる優しいオジチャンたちだった。
「親戚から近所の人まで、大人から“蔵の跡取り息子”と言われ続けたことに嫌気がさしちょったんだと思う。人が敷いたレールの上を歩くのがシャクだったんだわね。でも、いざ仕事となると蔵の景色が浮かんできた。オヤジは継がなくてもいいと言ってるけど、俺は継ぐぞ、と。なにごとも自分の意志で決めたい。もし親父が継げと言っちょったら、反発しちょったかもしれん。実は、オヤジ、すべてお見通しだったのかもしれんね」。
蔵を継ぐことは決めたが、大学院に進むことは許してもらい、現代制御理論に関する修士論文を書き上げ、学会で発表。卒業後は大阪の大手酒類卸売会社に修業に行く。
「大学院卒のボンボンが、蔵に入ってもなんの役に立たんことは目に見えちょった。跡取りとして、蔵人たちの手前、かっこつけたいし、なにか身に着けて帰らんとヤバイと思ったんよ」。

仕事は予想を上回る激務だった。就職した酒類卸は、ビールとナショナルブランドの日本酒を中心に扱っていた。1989年当時、アサヒスーパードライが飛ぶように売れ、倉庫には10トントラックが行列を作って待っていた。荷受け、荷出し業務を行う倉庫係を担当した24歳の石原さんは、腕っぷしの強い猛者(もさ)たちと一緒に、一日に何百ケースものビールを積み込む仕事に従事。大学時代は単車のレースや四輪のラリーに出場し、海では波乗り、山ではスキーに興ずる“肉体派”を自認していたが、これほどの重労働は経験したことがなかった。毎日、ヘトヘトに疲れ切って、食事も喉を通らなかったほどだった。
「なんで俺がこげな単純作業をせんといけんのだと、初日から後悔したわ。周りには大学院を出た奴なんてナニモンや、と異星人みたいに見られてた。でも、ここでは力がある奴がエラい。俺は1ケース持つのがやっとの、役に立たんカッコ悪い奴だった。このまましっぽ巻いて帰るわけにはいかんと思い直したんよ」。
石原さんは3か月で、倉庫で一番力持ちの人と同じ、一度にビール4ケースを持ち運べるようになった。しかも、地面からぐいっと持ち上げて、スイスイ運べるのは石原さんだけ。誰もが認める実力者として一目置かれるようになった。体形も様変わりして、筋肉のついた上腕がTシャツに入らなくなるほどだった。
「学問は大切だと思う。でも人間、裸一貫、下地からちゃんと体験せんといけんと思った。後で考えると、酒類卸での経験は、蔵人と一緒に一からたたきあげて酒を造りあげていく仕事に生かされちょると思う」。
石原さんが負けず嫌いなのはわかる。でも根性があれば、短期間で重いものを持てるようになるものだろうか。
「どこを持って、どういう角度で積むか。モノを動かすのは、力学なんだわ」と、にんまりする石原さん。
腕力や体力は鍛えればあるところまではいくが、それ以上をめざすなら知力も必要だ。イチローさんや中田英寿さん、大谷翔平選手ら、トップアスリートにクレバーな人が多い例を見ても明快だ。酒造りも同様だろう。酒造りの現場は、肉体労働を伴う単純作業の繰り返しだ。だが、酒造りは科学。微生物の力を借りるが、偶然できてしまうものではない。データをもとに、仮説を立てて試行錯誤を繰り返す意味では、研究者にも等しい。酒造りに必要なのは、アタマとカラダ、さらに、より良いものを求めようとするハート。回り道をしているように見えて、石原さんは酒造りの王道を歩んでいったように思う。
倉庫係でトップになった石原さんは、2年目からは営業職に移り、ビールとともに、新発売された「白鹿」吟醸生貯蔵酒を担当する。
「白いフロスト(霜降り)ボトルの4合瓶で、どんどん売れて、おかげで営業成績もよかった。でも都会で人気がある生貯蔵酒や吟醸は、うちの蔵では造っているのか、心配になってきたんよ。このままじゃ、俺が蔵に帰ったときは、蔵は消えてなくなっちょるかもしれん」。
危機を感じた石原さんは、5年の契約だった酒類卸の仕事を2年で退社。1990年に家業に就いた。

当時の王祿酒造は、普通酒を主体に約1000石(一升瓶換算10万本)を販売し、全国新酒鑑評会では金賞も受賞していた。地元での知名度の高さは圧倒的だったが、販路は島根県内のみ。顧客の中心は蔵の半径15km範囲のご近所だった。このままでは時代に取り残される……。そこで、関西方面で売れているフロストボトルの生貯蔵酒を杜氏に造らせ、しゃれたラベルを張って売り出したところ、あっという間に4合瓶100本が売れた。蔵のなかで、石原さんの発言権が増し、してやったりの気分だった。ところがその後ぱたっと売れゆきが止まる。これはマズイ、県外に打って出ようと目論み、知人の紹介で、飲食店の間で評判だという大阪市の地酒専門店「山中酒の店」に酒を持参した。
「地酒専門店なんてものがあるのも知らなくて、行ってみると古くて狭い店で、暗い場所で店主が黙って座っている。目の前にグラスが並んでいるので、あれぇ、飲み屋と間違えたかなと思った。こっちはビシッとスーツで決めていて、『金賞受賞蔵だぜ、エッヘン』という感じよ」。
石原さんが差し出した酒を一口飲んだ店主の山中基康さんは無言だった。口に合わなかったことを察し、気まずい雰囲気になったとき、「王祿さん、せっかく遠くから来てくれはったんやし、同じぐらいの値段のほかの酒、飲んでみますか?」と試飲グラスを差し出された。同時に、山中さんの背後が明るくなり、ずらりと一升瓶が並んでいるのが見えた。山中さんの背後は壁一面が日本酒専用の冷蔵庫だったのだが、照明のスイッチが切ってあったので、石原さんには見えなかったのだ。
「注がれた酒を一口試飲して、どん底に落ちた。差し出される酒をいくつ試しても、すべての酒が自分の酒よりずっと上だった。それなのに自慢げに酒を差し出した自分が情けなくて、穴があったら入りたかった」。
負けず嫌いな石原さんにとって、どれほどの屈辱だっただろう。挨拶もそこそこに店を辞し、大阪から島根まで、車で8時間ほどの道のりを悔し泣きしながら運転して帰った。岡山から中国山脈を越える交通の難所として有名な旧出雲街道の峠では、滂沱(ぼうだ)の涙で前が見えなくなり、何度も袖で拭いながら急ハンドルを切り続けた。このエピソードは、のちに“涙の四十曲(しじゅうまがり)峠”として王祿ファンに語り継がれることになる。

自分は井の中の蛙だったと気づいた石原さん。幼稚園児の頃、三輪車に乗って、槽口(ふなくち)からちょろちょろと流れ出てくる搾りたての酒を舐めてみたときは、幼心にも心躍るようなおいしさだった。その記憶は大人になっても舌に残っていたのだが、「山中酒の店」で試飲した「王祿」は、とてつもなくまずかった。まずさの原因はなにか。日本酒について無知であることを自覚した石原さんは、島根県産業技術センターに通い、同時に「山中酒の店」にも足繁く通って、よその蔵の酒を飲ませてもらうことを繰り返した。その結果、まずさの第一の原因が、匂いであったことに気が付く。品質管理や貯蔵温度に無頓着であったために、搾ったあとに酒が劣化し、何らかの理由で匂いが付くことがわかったのだ。
「生まれたての酒は、やっぱり旨かった。だけん、新酒を審査する鑑評会では金賞がとれたんだ」。
瓶や栓を徹底的に選び抜き、老(ひ)ね香の危険性を払拭するために、-5℃まで冷やす冷蔵庫を導入。さらに活性炭を使った濾過も、フィルターによる濾過も一切行なわないことにする。炭の匂いがつくのを嫌ったこともあるが、濾過すると、酒の変化が良くも悪くも見えなくなるからだという。石原さんがめざすのは、“酒が生まれた、そのままの味”を飲み手に届けることなのだ。


試行錯誤するうちに、山中さんが「お酒、良うなったなぁ。これならイケルかもしれまへんな」としみじみと言った。お互いに納得した一本の酒から、山中さんと取り引きが始まった。さらにしばらくたったある秋の日。山中さんから電話があり、「春先に持ってきたあの純米酒、芋虫が蝶になったみたいや」と、普段は物静かな山中さんが興奮している。
「その純米酒は自分で試飲しても、シブくてとても飲めたもんじゃなかったんだわ。それが、数か月で変貌を遂げちょったんだわ。今まで、できた酒を悪くさせない方法を追求してきたけれど、もしかしたら酒は生きちょるのかもしれん。上手に育てれば、生まれたとき以上においしくなる。花開くこともあるのかもしれんと気が付いたんだ」。
“酒は生きていて、育っていく”ものだ。生まれて来た酒を、生まれた段階で判断せずに、愛情を持って育てていこう。こう決意した石原さんは、濾過しないという方針は変えずに、仕込みごとに瓶詰めし、ブレンドしないことに決める。
それまで王祿酒造では、出雲杜氏の白石家が三代に渡って酒造りを担ってきた。石原丈径さんが家業に就いた時は、杜氏歴40年の白石秋雄さんが杜氏を務めていた。それまで蔵元は酒造りには口出ししてこなかったが、帰ってきた跡取り息子が、突然、設備を変え、あれこれ注文を付けるようになって、戸惑ったことだろう。
一方、石原さんにすれば、環境は整えても、酒が槽口から垂れてくるまで待つことしかできないことに、もどかしさを感じるようになっていた。酒質は着実に上がったが、元の酒がよくなかったら、それ以上は望めないことがわかった。これ以上、レベルアップするにはどうすればいいのか。ひらめいたきっかけは、ある取引先の「ここまで酒を育てることができるなら、自分で造ったらいいのでは?」という一言だった。
「この言葉を聞いて頭に浮かんだのは、十四代のことだった」と、石原さんは言う。
※次回も引き続き、王祿酒造の物語をお送りします。
王祿酒造
島根県松江市東出雲町揖屋484 【電話】0852-52-2010
※文中の高木さんのお名前の漢字「高」は、正しくは“はしごだか”です。ブラウザ上で正しく表示されない可能性があるために「高」と表示しています。会社名は「高木酒造」です。
文・撮影:山同敦子