石原壮一郎さんの青春旅の二話目です。最初の目的地、藤沢駅にある「大船軒」に到着。石原さんの友人が太鼓判を押していただしの味に、期待を寄せながら朝食のうどんにありつきます。ようやく青春旅の本格スタートです。
「蕎麦にしますか、うどんにしますか?」
「うどんで!」「うどんで!」「うどんで!」
カウンターの向こうのお姉さんが、一瞬「ギョッ」としたように見えました。若手編集者のカワノ君、おにぎり大好き写真家のサカモトさん、そして私の「青春三人組」は、池袋駅6時34分発の湘南新宿ラインの始発に乗って、7時31分に藤沢駅に到着。駅のホームにある立ち食い蕎麦屋の「大船軒」で、この日最初の食事です。ああ、鼻をくすぐるだしの香り……。
何を隠そう私は、伊勢うどんを応援する「伊勢うどん大使」を拝命しております。もしかしてTシャツやトートバックに、さりげなく(?)伊勢うどん感が漂っているでしょうか。今回の旅では伊勢うどんは登場しませんけど、こういう形で言及できて満足です。
蕎麦かうどんかと問われたら反射的に「うどん!」と答えてしまう私はさておき、カワノ君もサカモトさんも、気をつかってうどんにしてもらってすいません。
さてさて、「とろ玉たぬきつね」のうどんが入った丼が目の前に登場。とろ玉、油揚げ(きつね)、揚げ玉(たぬき)、そしてたっぷりのネギ。まずはだしをレンゲですくってズズズと。
甘めのだしには、魚介の旨味がたっぷり溶け込んでいます。醤油の味と香りもきっちり感じられて、なるほど、友達が「あそこはおいしい」と言っていただけのことはあります。
うどんの麺は、立ち食い蕎麦屋さんの伝統にのっとった食べやすい食感で、無駄な自己主張はありません。
だしの味を引き立て、お腹を着実にふくらませてくれます。次第にたぬき成分がだしに溶けだして、ますますいい感じになってきました。しっかり味が付いた油揚げも、噛みしめると口の中に甘辛いおいしさが広がります。
立ち食い蕎麦屋で卵を入れて食べるときに、いつも迷うのが、どのタイミングで黄身を崩すか。早すぎるとだしで薄まって存在感が薄れるし、最後まで崩さないと「私を何だと思ってるの!存在意義を否定しないで!」と黄身に怒られそうです。
僕はキミをどうすればいいのか。キミはどうされたいのか。キミの名は……。あ、名前は黄身ですね。
そんな毎度の葛藤と戦いつつ、うどんとだしが半分ぐらいになったところで、意を決して黄身を箸で二分割。トロトロの黄身が溶け込むことで、濃い味のだしの新たな魅力が引き出されます。うどんと油揚げを食べ切り、卵と混じり合っただしに、残った揚げ玉とネギが浮かんでいる最後のひと口を一気に口の中に。ああ、この達成感と幸福感。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」と、カウンターの中にいたふたりのベテラン美女に話しかけると、「ありがとうございます」とほほ笑んでくださいました。聞けば、ほぼ毎朝立ち寄って同じメニューを食べる常連さんが何人もいるそうです。
蕎麦とうどんの注文の比率は、ほぼ9割が蕎麦。どうりで、3人そろってうどんを頼んだら、ちょっと驚かれたはずです。「蕎麦のほうが何十秒か早くできるからね。ほら、みんな朝は急いでるから」とのこと。
「大船軒」という名前ですが、大船駅にあった系列の立ち食い蕎麦のお店は2018年3月に閉店してしまいました。立ち食い蕎麦好きの友人が太鼓判を押すこのだしが味わえるのは、藤沢駅と根岸線の本郷台駅にある「大船軒」だけだとか。どうか末永く、この味を守り続けてください。
お腹も落ち着いてホッとしたところでホームの電光掲示板を見たら、ちょうど7時49分の熱海行きが!
あわてて乗り込んで、いざ西に。西へ向かうぞ、ニンニキニキニキ♪(50代以上限定のネタですいません)。
平塚駅を過ぎたあたりから、車内はだんだん人も減ってのんびりした雰囲気になってきました。車窓から海が見えます。けっこう近そうです。「青春18きっぷ」を使ったこの旅の目的のひとつは、青春を取り戻すことでした。青春といえば海ではありませんか!
「よし、途中下車して海を見に行きましょう!海岸で追いかけっこをしましょう!」と、カワノ君とサカモトさんに提案。
おそらく内心は「こいつ、なに言い出すんだ」と思ったでしょうけど、そんな気配はみじんも表情に出さず、即座に「いいですね、行きましょう!」と賛成してくれたふたりに、強靭なプロ根性を見ました。
車窓の景色を見ながら、徐々に海が近づいてきたところで「ここだ!」と決断。熱海駅の3つ手前の根府川駅に降り立ちました。さっきの藤沢駅は「都会の駅」でしたが、ここまでくると空が広くなってホームに屋根もなくなり、一気にローカル感が漂います。
ホームからも海が見えます。水平距離は近そうですけど、かなり高度差があるかも。降りたのは8時40分。時刻表でチェックすると、9時16分発の熱海行きがあります。先を考えると、それには乗りたいところ。さあ、30分ちょっとで海に行って帰ってこられるか。
途中下車して歩き始め、急な坂道を下って大きなカーブを曲がると、目の前に海が……見えたには見えたんですが、ああ、こりゃダメだ。
海は道路よりもかなり下のほうにあり、簡単に降りられそうにありません。
「遠そうだね」「遠そうですね」「遠いですね」……。諦めるのも勇気であり、思った通りにはいかないのが旅です。
「駅に戻りましょう」と宣言。
「残念ですね」と言ったふたりの目の奥に安堵の気配が感じられたのは、たぶん気のせいです。駅までのきつい坂道を上りながら、青春の挫折の味を想い出しました。これもきっと、青春の神様の粋な計らいに違いありません。まあ、何に挫折したかというと、砂浜での追いかけっこなんですけどね。しかも男3人での。
――衝撃の第三回につづく。
文:石原壮一郎 写真:阪本勇