松阪の名店「不二屋」で想い出の味を味わった石原壮一郎さん。旅の目的も達成して、なんだか目がウルウル。旅が終わったら、帰らなければなりません。松阪を離れる前に寄りたいところがあるそうです。家に帰るまでが青春ですよ。
「おいしかったですねえ、中華そばもやきそばもチャンポンも。い、石原さん、大きな牛の目がこっちを見てます……」
えっ、何をおびえているんですか、カワノ君。ああ、モー太郎じゃありませんか。創業明治28年の老舗にして県内で唯一の駅弁屋である「駅弁のあら竹(新竹商店)」のイメージキャラクターです。着ぐるみもいるんですよ。
「青春18きっぷ」で東京から松阪への青春旅を続けてきた、フレッシュ系若手編集者のカワノ君とおにぎり大好き写真家のサカモトさんと私の青春3人組。ゴールとして目指してきた「不二屋」で想い出の味を堪能し、ふたたび松阪駅に向かっていました。
そうだ、ここでお弁当を買っていきましょう。今はお腹いっぱいかもしれないけど、ふたりにはぜひ、インパクト抜群のあの弁当を食べてもらわなければ。ちなみに、六代目社長である新竹浩子さんは松阪木綿の和服姿がよく似あう松阪が誇る美女で、しかも同じ高校の卒業生です。
「いろんなところで青春的なつながりがありますね。先輩ですか、後輩ですか?」
いやいや、サカモトさん、それは私の口からは言えません。運がいいと会えるんですけど、今日はいらっしゃるかな。ガラガラガラ。あー、残念。お出かけ中でした。
店内にはここの駅弁が紹介された新聞記事や雑誌記事のコピーがビッシリ。社長の写真を示してさっきの説明が虚偽ではないことを証明しつつ、ぜひ食べてほしい弁当を指差します。
これです、ドドーン!その名も「モー太郎弁当」!
「うわー、牛の顔がけっこうリアルですね」
「中の牛めしも、いい色でうまそうだなあ」
先に言ってしまいますが、ビックリなのは容器の形だけではありません。フタを開けると、いきなり童謡「ふるさと」のメロディーが鳴り出します。もちろん、味も絶品。キャッチフレーズのとおり、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、そして心の「五感に響く駅弁」なのです。
駅前商店街にあるお店は奥で製造もしているので、つくりたてのホカホカを売ってもらえます。カワノ君とサカモトさんは「モー太郎弁当」、私は「モー太郎弁当」はちょっと前に食べたばかりなので、赤ワインで肉を煮込んであるという「黒毛和牛 牛めし」にしました。
ふたたび松阪駅で、今度は名古屋行き12時48分発「快速みえ12号」を待ちます。短い滞在ではありましたが、松阪に置き忘れたままの青春を見つけたり、自分の中に眠っていた青春的な何かに火が付いたり……したような気がする旅でした。錯覚だったとしても、そんな気にさせてもらえるのが旅の醍醐味です。
駅構内にある「あら竹」の売店にも、いろんな種類のお弁当とモー太郎と美女が。モー太郎は今日もホームに面したこの場所で、そのクリッとした目で、松阪に帰ってきた人や訪れた人を迎え入れ、松阪を後にする人を見送ってくれているわけですね。
私はこのあと名古屋方面で別の仕事があるので、ふたりとは名古屋駅でお別れです。青春18きっぷは5回分がセットで、来るときに3人で3回分使いました。あと2回分残っているので、とりあえずカワノ君とサカモトさんはそれで快速みえに(途中の一部区間は別料金)。私は普通に名古屋までの切符を買いました。
14時10分に名古屋駅に着いて、喫茶店でひと休みしつつ旅を振り返ります。
「充実の二日間でしたね。おつかれさまでした。何時の新幹線にするんですか」
そう尋ねた私に、カワノ君が予想外の言葉を発しました。
「帰りも青春18きっぷで東京まで行きます。まだ今日中に着けますから」
サカモトさんも「私もそのつもりでした」と、当然のこととしてうなづいています。恐れ入りました!私がすっかり汚れちまっていたようです。松阪まで行くというミッションはもう達成したんだから、帰りは新幹線に乗ると思い込んでいました。
「いやあ、青春18きっぷの旅にはまっちゃったみたいです」と笑うふたり。若さとは何とまぶしいのでしょうか。その姿はまさに青春の権化であり、青春色の後光が差しています。
その後、東海道線の車中のふたりから、いかに「モー太郎弁当」がおいしかったかという感動のメッセージが届きました。フタをあけると鳴り出す「ふるさと」の止め方がわからず、周囲からの注目を浴びてしまったことも。最後まで青春っぽいドタバタ旅だったようで何よりです。そのオルゴールはフタから外して、ぜひ冷蔵庫の中に付けてください。
私も夕方、出先で「黒毛和牛 牛めし」をいただきました。でっかい牛肉がごはんの上にギューと詰まっていて、モー大感動!添えられた黒胡椒が、牛肉の甘みをさらに引き立ててくれます。ひと口食べるごとに、ウッシッシと笑みがこぼれるおいしさでした。
そういえばカワノ君が「松阪牛ではないんですね……」と遠慮がちに呟いていましたが、誤解があるといけないので、そこについてはきっちり説明させてください。
かつて、「あら竹」の弁当の多くには「松阪牛」という冠がついていました。「モー太郎弁当」も、平成14年に登場したときの商品名は「松阪牛モー太郎弁当」だったとか。しかし、翌平成15年に「松阪牛産地認定システム」がスタートして、松阪牛を名乗ってもいい産地の範囲が厳しく制限されます。
「あら竹」の弁当に使っている牛肉は、60年前に「元祖特撰牛肉弁当」を発売して以来、松阪で人気の精肉店「丸中本店」さんから、駅弁にしてもおいしい地元の牛肉を厳選して仕入れてきました。ただ、厳密な意味ですべて「松阪牛」と名乗れるわけではありません。
そんなお役所的な線引きの事情で、平成15年を境に、ほとんどの駅弁の商品名から「松阪牛」を外して「黒毛和牛」に変更します。あくまで「松阪牛」のブランドにこだわろうとすると、値段がいきなり跳ね上がってしまうでしょう。
松阪市内の精肉店でも、肉質は松阪牛とほとんど変わらないのに、同じ事情で「国産黒毛和牛」としか名乗れなくて、その代わりにお買い得な牛肉が並んでいます。けっして適当な牛肉を仕入れてきて、さも松阪牛っぽく振る舞っているわけではありません。断じてありません。
ま、そのへんは食べた人が判断すればいいことですね。たしかに松阪牛はとろけるおいしさですけど、松阪にはブランド牛以外でもおいしい肉がたくさんあります。
最後の最後に、また熱く語ってしまいました。青春18きっぷを使った青春旅で、青春時代の情熱みたいなものが体の中によみがえってきたのでしょうか。
ふたりが言っていたように、青春18きっぷの旅は癖になります。しかも、どこをどうひっくり返しても若者とは言えない世代が使うことで、その真価はさらに発揮されるかも。明らかに自分に都合がいい解釈ですけど、それなりに年齢や経験を重ねたからこそ、日常を離れたスローテンポな旅を通して、たくさんの発見があり多種多様な楽しみに出会えます。むしろ50代以上こそが「青春18きっぷ世代」だと言っていいでしょう。
十一回にわたってお付き合いいただき、ありがとうございました。ひとりでも多くの人に「よし、自分も青春18きっぷで旅に出てみるか!」という気持ちになってもらえたら幸いです。ただ、さっそく買いに行こうと腰を上げた方がいたら、まことに申し訳ありません!
青春18きっぷは期間限定で、夏季の発売期間は8月31日で終了しています。利用期間も9月10日まで。うわ、あと何日かしかありません。「もっと早く言えよ!」という声が聞こえてきそうです。
でも大丈夫。すぐにまた冬季の発売期間(12月1日~31日)と利用期間(12月10日~2020年1月10日)がやってきます。青春は何度でも繰り返されるし、人生には何度もチャンスが訪れるし、こうしている間にも長い旅は続いているのです!
――おわり。
文:石原壮一郎 写真:阪本勇