祝いの席にかかせず、魚の王様とも称される白身魚、鯛。品格すら感じる旨味をたたえる上質な鯛を東京で手に入れるには、それ相応の労を要する。刺身でよし、昆布〆でよし、お椀によし。「㐂寿司」では、余すところなくその美味しさを享受できる。
本当に旨い鯛は他の白身魚の追随を許さない。弾力のある身質、噛むほどに広がる旨味、後を引く香りと甘さ――。
今でも上方では、どんな鯛を持っているかで料理屋の格が決まると言われている。
鯛は一年中獲れる魚だが、桜の花が満開になる春の鯛は「桜鯛」と呼ばれ珍重される。
「㐂寿司」でも春になると鮨種の木札に鯛の文字が踊る。「㐂寿司」で鯛尽くしはいかがだろうか。
「㐂寿司」が仕入れる鯛は、瀬戸内海の東端に位置し、播磨灘(はりまなだ)と大阪湾を隔てる明石海峡でとれた「明石の鯛」。
もしくは、明石とは海峡を挟んだ対岸に位置する「淡路の鯛」が主流だ。
明石海峡の鯛は、太平洋から瀬戸内海へと流入する流れの速い渦潮にもまれて育つため骨格そのものが他の産地とは違う。尾っぽ近くの下腹の骨に、ぷっくりと膨らんだ瘤ができるのだ。この瘤こそ、正真正銘、日本一の鯛である証である。鯛は「㐂寿司」四代目の油井一浩さんにとっても、思い入れのある魚だという。
「鯛は西の魚なので、まずはいい魚がないと始まりません。豊洲市場にある『工藤水産』という仲買に魚は任せてあります。使うのは一本釣りの鯛。その日最高の魚を、その場で〆てもらいます。産地との信頼関係のある店でなければ、東京でいい鯛にありつくことはできません。江戸前の鮨はマグロが華なので、鯛に力を入れている店は少ないんじゃないかな」
握りから始めるのもいいが、その前に鯛の刺身で一杯やるのも春の楽しみだ。
白磁の皿に薄造りに盛られた鯛。まずは何もつけずに口に含んでみる。噛むほどに立ち上がる、魚の旨味と甘味に驚くだろう。
そして、このタイミングで常温の日本酒を口に含めば、鯛の旨味が何倍にも膨らむ。鯛の刺身は酒を呼ぶのだ。
また、山葵のツンッとした爽やかな香りが、鯛の身に含まれるほのかな海の香りを引き立てる。「㐂寿司」には天然の海塩を約1,000回もすり鉢であたった粉のような塩が常備されていて、これと酢橘などの柑橘で楽しむのもいい。
天然の鯛は個体差もはっきりしている。時期によっても、魚体の大きさによっても、産地によっても、〆てからの時間によっても味が異なる。
おまかせ主流の昨今の日本料理屋では、潔く鯛1本で勝負している店は少ない。だから、鯛の刺身で一杯やること、そのものがなかなかできるものではない。
かといって、居酒屋では、明石や淡路の鯛を仕入れるのは難しい。格式がありながら、それでいて、自由きままな下町の鮨屋だからこその愉しみだ。運良く本当にうまい鯛にめぐりあったならば、その味は飴色の脂が乗った寒鮃(かんびらめ)も、城下鰈(しろしたがれい)も、やっぱりかなわない。
そして鯛の握り。「㐂寿司」では厚くもなく、薄くもなく、絶妙な厚さに切りつけて、握ってくれる。
山葵と煮切り、そして最後に酢橘を1滴。
酢飯と遭うと、鯛の身の甘さが一段と際立つ。
咀嚼していくうちに、米と鯛の質の異なる甘味が一体となって、やはり酒が欲しくなる。
鯛の身の状態をさす言葉に“活かる”という表現がある。鮮度のいい鯛は、弾力があり、包丁を入れた時に身がグンと反り返る。しかし、この時点では新鮮なだけで、旨味を引き出すには、ある程度の時間が必要だという。
「おろし立ての魚は身が活かってはいますが、鮨種には向きません。朝、市場で仕入れた鯛は、すぐに神経〆の処理をして持ち帰り、包丁でおろします。その鯛は晩から使うことになるのですが、できれば、翌日の昼以降が食べ頃ではないでしょうか。鯛と昆布との相性がいいので、昆布〆にする場合もあります。昆布の旨味と鯛が出会うと、刺身とはまた別の鯛の旨味が引き出されます。身全体がねっとりとして、鮨種には最適の状態になります」
そして、とどめは鯛の骨を使った潮仕立てのお椀だ。
鯛の骨でとった出汁は、酒を飲んで、鮨をつまんだ後にはたまらない。濃厚で奥行きのある味ながら、まったくしつこさがない。
「㐂寿司」では、1年を通じて鮃(ひらめ)やスズキのアラを使ったお椀が登場するが、鯛のお椀は別格ではないか。
――つづく。
文:中原一歩 写真:岡本寿