強く、優しく、美しい鮨。江戸前の仕事を守り続けながら、今を生きる「㐂寿司」の鮨種を追う連載の最終回。1年以上をかけて追いかけた「㐂寿司」のことを振り返ります。
「㐂寿司」には「自由」がある。つくづくそう思う。
「おまかせ」一辺倒の東京の鮨シーンの中で、好きな種を好きな順番で、いくつ食べても構わない鮨屋は数えるほどしかない。昼でも夜でもひとりでもふたりでも、カウンターで鮨をつまめる。時には家族や仲間を連れ立って、小上がりで宴会と洒落込んでもいい。
注文の仕方も千差万別だ。昼の「お決まり」は、握り8貫と巻物半分が付いてくる。これを食べれば、店の味と値段のおおよその見当がつくだろう。足りなければ、目の前のガラスケースを覗き込んで、気になる種を追加すればいい。
財布の余裕がある日は「今日は、おまかせで」と声をかけたい。「走り」「旬」「名残」を盛り込んだ、とびきり上等な鮨種がトントーンと小気味よく登場するだろう。
最初にちらしを注文して最後に穴子を2貫というワガママな「お好み」にも嫌な顔ひとつせずに対応してくれる。「㐂寿司」は本当に客本位の店なのだ。
「㐂寿司」の始まりは明治後期。流通や保存技術に難があった時代である。
必要に迫られて誕生した「煮る」「〆る」「蒸す」「漬ける」などの技術を考案した江戸前鮨の開祖「與兵衛すし」の弟子の店で修業した油井㐂太郎さんが、隅田川の左岸、神田川の辺りの「柳橋」で屋台として創業。その後、関東大震災の年に、日本橋人形町芳町(現・人形町)に暖簾分けして開店し、間もなく100年になる。四代に渡って家業で受け継がれた鮨は、伝統的江戸前鮨の王道であり、東京の鮨屋のひとつの「座標」になっている。
私がこの連載「㐂寿司の365日」をやろうと決めた動機には、先代の油井隆一親方との出会いがあった。東京の下町の気風の良さと、色街・人形町の艶やかな空気をまとった親方は、東京の若き鮨職人の憧れであり「みんなの親方」だった。
仕事には厳しかったが、朝、市場で若い顔見知りの職人とすれ違えば、どんなに先を急いでいても、立ち止まって、必ず、ひと言ふた言、言葉を交わした。明るく、朗らかで、親方が「おはようござい」と声をかけるだけで、その場がパッと明るく華やいだ。親方は東京の人が思い浮かべる「鮨屋の旦那」そのものだった。
ある日、そんな親方の姿を店で見かけなくなった。あんなに仕事が好きだった親方がいない。贔屓の客は騒ついた。後日、腰のリンパにがんが発見されたと本人から連絡をもらった。けれども、電話の声は明るかった。早々と入院し、治療をして、再び、復帰することしか頭になかったと思う。神輿好きの江戸っ子の血を引く男衆らしく、病に倒れても弱音を吐く素振りは最後まで見せなかったと聞く。
その数週間前、私は親方の仕事を1年間、追いかけてみたいと打ち明けていた。親方の鮨をつまみながら聞く昔話が、滅法、面白く興味深かったからだ。
江戸前の仕事といえば「頑なな伝統」をイメージするが、実際には親方の代になって変えたり、付け加えたり、仕事によっては現代にそぐわずに消えた仕事も多かった。その時代、時代において、「㐂寿司」の仕事は「変化」していたのだ。
この提案を親方は快く、受け入れてくれた。そして、季節の旬の鮨種を追いかける中で、「㐂寿司」の仕事の裏舞台を紹介するこの連載「『㐂寿司』の365日。」が決まったのだ。
しかし、残念ながら親方と仕事をすることは叶わなかった。
がんは思いがけずも親方の全身を蝕んでいたのだ。
2018年5月、親方は惜しまれながら天国に旅立った。享年76歳。今も左利きだった親方が残した出刃包丁は、誰も使いこなせないまま、つけ台に面した棚に大切に仕舞われている。
親方の仕事は確実にふたりの息子に見事に継承されている。親方のためにも、この「㐂寿司の365日。」を実現したい。その思いでこの1年と少し、写真家・岡本寿さんと「㐂寿司」に通った。四代目の油井一浩さんは、先達が残した古い仕事を守り、流行り廃りに流されずに淡々と鮨を握ることが自分の役割であると確信している。
「父や祖父など先達が店にとって一番大事な幹の部分をつくってくれました。残された僕らは時代に合った枝葉をどうつくるかに徹すればいい。その意味では本当に楽をさせてもらっていると思います。だからこそ、いつまでも町の鮨屋でありたいと思っています。自由気ままに好きなものを、好きなだけ食べる。このスタイルは変えるつもりはありません」
連載の終わりに改めて「㐂寿司」の日本家屋と看板を見上げた。この老舗の風格の源泉は「時間」である。もう、誰もが、こんな店はできないだろうと心で思っている。
だからこそ、いつまでも、続いて欲しいと誰もが願う。こんな鮨屋があればこそ、東京の空も、少し広く感じることができるのだ。
――「シリーズ:『㐂寿司』の365日。」 了
文:中原一歩 写真:岡本寿