「鉄火巻き」に「ひもきゅう」に「〆さばとガリの海苔巻き」。「㐂寿司」では、〆の巻物だけでも迷ってしまう。でもやっぱり、欠くことができないのは「干瓢巻き」だ。何度食べても飽きない秘密は、質も製法も味付けも、ぶれずにつくり続けていることにあった。
「干瓢巻きちょうだい」
「㐂寿司」のカウンターで鮨をつまんでいる時、隣の席からそう声がかかると、なんだかこっちまで嬉しくなってしまう。なぜならば、本当に江戸前の鮨が好きでなければ口に出ない注文だからだ。江戸前鮨の〆は、今も昔も干瓢巻きと玉子と相場は決まっている。
「㐂寿司」で〆の巻物は、迷うほどの一級品揃いだ。
上等なマグロの赤身に、濃厚な脂が乗った皮ぎしのすき身を巻いた「鉄火巻き」。
コリコリとした絶妙な歯ごたえが味わえる赤貝のヒモとキュウリを巻いた「ひもきゅう巻き」に、私は爽やかな大葉を入れてもらう。さっぱりとしているので満腹でも、いくつでも食べられてしまう。
中には〆だと言っているのに、「〆さばとガリの海苔巻き」で冷酒をお代わりする人もいる。
甘いのが好きな人にはデザート感覚の「おぼろ巻き」が喜ばれる。
いやはや、巻物だけでも「㐂寿司」の献立は数え切れない。
しかし、何度か浮気をしても、最終的にスタンダードになるのは、やっぱり、干瓢巻きだ。甘辛く炊いた干瓢と酢飯。そして香り高い海苔の組み合わせは、何度食べても飽きないし、絶対的に旨い。これがないと「㐂寿司」の〆は決まらない。
「㐂寿司」では2ヶ月に3度、およそ1kgの干瓢を仕込む。使うのは干瓢の産地として名高い栃木県南部の物。干瓢は夕顔の果実である「ふくべ」を輪切りにし、中心のワタをくり抜き、鉋のような刃物を使って、桂剥きのように帯状に長く剥き、それを乾燥させてつくる。干瓢農家の数はここ十数年で激減し、その値段も高値安定だ。
まるで神主がお祓いのときに使う祓串(はらいぐし)のような干瓢の束を、海苔と同じ寸法に切って準備する。ただし、ゆでる前に干瓢を戻し、アクを取る作業を忘れてはならない。金だらいに干瓢を入れ、塩を振り、熱湯をかける。そして、熱湯を捨て、水でよくもみ洗いをする。こうして乾燥した干瓢が水と出会って息を吹き返す。
いよいよ干瓢をゆでる。ゆでる時間は干瓢の個体差によって違う。
四代目の油井一浩さんは言う。
「とにかく柔らかすぎても、硬すぎてもダメなんです。干瓢の状態を見極めながら1時間から3時間かけてゆで上げます。このときの加減で仕上がりが決まりますので、最後は手で触りながら、その柔らかさをチェックします。最後はサラシに包んで水気を絞るのですが、あまり、強く絞ってしまうと、干瓢は柔らかいのでボロボロになって切れてしまいます。優しく扱うことが重要です」
そしていよいよ、味を含ませるために干瓢を炊く作業が始まる。使うのは熱伝導が良い銅の大鍋。そして、干瓢の味を決める煮汁は、前回に炊いた煮汁を冷蔵庫で保存していたものに醤油とザラメを加えて使う。
「干瓢を入れたら極弱火で炊いていきます。戻した干瓢は柔らかいので、かき混ぜてはいけません。蓋をしてコトコトと炊きます。うちの干瓢はコクがあり、しっかりとした味付けを目指しているので、甘味には上白糖ではなくザラメを使います」
実はこの干瓢の煮汁は、「㐂寿司」伝統の「ツメ」にも入れる。また、ちらし用のしいたけを炊くときにも使う。煮汁を継ぎ足すことで、一朝一夕にはできない、深くて、複雑な味になるのだ。これも、素材が思うように手に入らない時代の江戸前の知恵である。
この頃になると店の外にも醤油の甘辛い香りが漂う。近所の人は「お、干瓢を炊いているな」と思うかもしれない。干瓢は火を入れるに従って、まるで砂糖を焦がしてつくるキャラメリゼのような、深く美しい琥珀色の色味がつく。しっかりとしているのに、香りは滅法、優しい。全体にまったりとした煮汁が染み込んだのを見計らって、最後にみりんを加えて照りを出す。
火から鍋を落とし、粗熱が取れたら干瓢をザルに取り出す。
「干瓢はただ柔らかいだけではダメ。コシがないと。冷めると見た目は真っ黒になるので、すごく濃い味を想像してしまいますが、実は意外にさっぱりとしています。けれど、ある程度はしっかりとした味が付いてないと干瓢とは言えません」
この干瓢づくりを今ではやらなくなった店も多いと聞く。手間暇がかかる割には、注文する客がいないからだ。中には既製品を買う同業者もいる。
「うちでは干瓢は人気ですよ。干瓢をアテにお酒を召し上がる方もいらっしゃいます。甘辛く煮たシイタケもつけてとかね。山葵をちょこんとつけるのが人が好きな方もいます。干瓢は巻物の他にもちらしにも使うので、絶対に切らすことはできません。いい干瓢が少なくなっているので、とても心配しています」
それにしても、「㐂寿司」の干瓢は地味だけどいい仕事をしている。柔らかすぎず、硬からず、甘からず、辛からず――。まさに「絶妙」の塩梅の干瓢を食べてこそ、江戸前の鮨を堪能した気持ちになる。店のスタンダードの味をぶれずにつくり続けることも、老舗の底力なのである。
文:中原一歩 写真:岡本寿