酢飯には海苔や干瓢やガリを詰め、ツメを塗って仕上げる。ちょうどよいサイズの小いかを探して丁寧に仕込むことはもとより、自店で手塩にかけてつくる干瓢やツメがなければ成立しない鮨。江戸前の仕事の集約がここにある。
「㐂寿司」のカウンターで「小いかの印籠(いんろう)詰め」を注文している客に遭遇すると、「この人は古い江戸前の鮨が好きなんだな」と、少しばかり嬉しくなってしまう。
数ある「㐂寿司」の鮨種の中でも、こればかりはお決まりの献立には入っていない、わざわざ注文しなければ出会えない特別な鮨種だからだ。
印籠詰めとは、日本料理全般において「材料を詰め込むこと」で、「㐂寿司」においてはいかの胴体に酢飯を詰めたものだ。
使われるのは、ヤリイカの小さめのものを甘辛い煮汁で炊いてつくる「煮いか」だ。
いかの胴体に詰め物をした料理といえば、函館の「いかめし」が有名だが、こちらは生のいかの胴体に生米を詰めて作るので、味わいも食感も趣を異にする。
印籠詰めは「㐂寿司」の季節を通じた定番の種だ。四代目の油井一浩さんは毎朝、市場を歩きながらお目当てのいかを探す。こればかりは特定の仕入先があるわけではなく、市場を隈無く歩いて、煮いかに最適な大きさのいかを探すしかない。
「印籠詰めに使ういかは、手の平大の大きさのものに限定して探します。これ以上、小さくても大きくてもダメ。産地よりも大きさが重要です。ヤリイカの小ぶりなものが一番ですが、ないときは小さめの白イカを使うこともあります」
江戸前鮨の世界でいかといえば、歯切れの良いスミイカが定番だ。
しかし、同じいかでも、こちらは見てくれが悪く、でっぷりとしている上、熱を加えると固くなるので煮いかには使わない。 煮いかに使ういかの仕込みは店でもっとも若い職人の仕事だという。
いかは煮る前に胴体から内臓を取り出し、同時にいかの表面を覆う薄皮を剥いて準備する。しかし、ここから単純ながら非常に神経を使う作業が続く。
「表面の薄皮を剥いでも、いかの皮は何枚も、何枚も何重にも重なっているのです。小さないかの身は柔らかく、滑りやすいので、布巾を使って、慎重に皮を取り除いていきます。いかの皮はいつまでも剥けるのでキリがありませんが、 ここである程度、取り除いておかないと、口に入れた時の食感が悪くなってしまいます」
一浩さんは若い頃、父親である大旦那にこの煮いかの下ごしらえを言いつけられ、朝からずっといかの皮を剥いていたと苦笑いする。
「駆け出しの頃なので仕方がありませんが、ずっといかの皮を剥かされました。剥いても、剥いても、やり直し。いい加減、いかを見るのも嫌になったこともあります」
こうして下処理が施されたいかは醤油を主体に酒と水と砂糖を合わせたつゆで煮ていく。味醂を使わないのは、身が硬くなるのを防ぐためだ。
煮るといっても熱の加えすぎは禁物。それでいて半生ではカウンターに常備できないので、その加減が難しい。
煮汁が沸騰して、およそ2分から3分。全体に、ほんのり甘辛い風味がついたら引き上げる。煮汁の色こそ濃いが、穴子同様に白く煮あげるのが店の身上だ。ゲソの部分も同様に火を入れる。
煮上がったいかは、粗熱をとって常備する。お酒が好きな人にとっては、この煮いかが最高のツマミとなる。特にゲソの部分は、コリコリとしていて、噛むほどにいかの旨味が溢れる。若いいかならではの儚さがいい。
印籠詰めに使う酢飯もひと工夫されている。酢飯に細かく刻んだ干瓢、ガリ、海苔を混ぜて、具入りの酢飯をつくるのだ。
これを形の良い煮いかの胴体にたっぷり詰める。
そして、食べやすい大きさに切って、「㐂寿司」自慢のツメで供する。弾力がありながらも柔らかいいかの食感と、いろいろな具の味が渾然一体となった酢飯の取り合わせが秀逸だ。
酢飯に忍ばせた柚子がプンッと香り立つ。
煮いかはそのまま握っても旨い。こちらも、握り鮨というものが誕生した当時から握られ続けている伝統の種だ。
「いわゆる創作と呼ばれる、新しい鮨種を出す店が増えていますが、だからこそ、こうした古い仕事が新鮮に見えるんです。これも、干瓢がなければ、ツメがなければ、つくることができない。古い仕事の継続の上にしか成り立たないのです。『㐂寿司』の初代から伝わる伝統の印籠詰めは、これからも大事にしていきたいと思っています」
文:中原一歩 写真:岡本寿