「EST!」のカクテルブック
香りと柔らかさが混じり合う"水割り"|「EST!」のカクテルブック4杯目

香りと柔らかさが混じり合う"水割り"|「EST!」のカクテルブック4杯目

「EST!」の水割りは、開店当初から耳目を集めた1杯である。飲む前に香りを味わい、口にした後には余韻を楽しめる工夫がなされている。そして不思議と柔らかい。水割りという極めてシンプルなカクテルに仕掛けられた秘密とは?

マスターの考えを体現した定番のカクテル。

「EST!」の扉を開けても、すぐにカウンターにはたどり着けない。まず目の前に現れるのは、天井まで続く酒棚。そこには「特級」と表記されたスコッチウイスキー“Black&White”がびっしりと並んでいる。ラベルに描かれた黒と白のテリアが印象的だ。

かつて水割りは、この“Black&White”だけでつくられていた。いまは“ジョニーウォーカー ブラックラベル”や“デュワーズ”、“オールドパー”などのスコッチウイスキーが基本で、もちろん好みのウイスキーでもつくってくれる。

Black&White
棚には“Black&White”のボトルがびっしり並ぶ。その数150本! 1980年代製の特級表示ウイスキーはいまや貴重だ。

「EST!」が開店した1973年当時、オーセンティックバーの数はいまよりも圧倒的に少なかったものの、バーに通う人々の間で「『EST!』の水割りは、ちょっとすごい」と話題になったという。それを聞いて、同業のバーテンダーが飲みに来ることも、しばしばあった。

「EST!」の水割りは、12ozのタンブラーを使って供される。ハイボールと同じサイズ。あえて7分目ぐらいまでしか注がないスタイルも、ハイボールと一緒。理由も然り。グラスに余白をつくることで、スコッチの香りが漂い、口に届くまでの“間(ま)”が生まれ、口を離した後にはそこに余韻が生まれるからだ。
それを実現すべく、実は特注のグラスを使っている。注ぐ割合も、味わいも、他店にはないものだった。マスターの渡辺昭男さんのカクテルに対する考えを体現した水割りは、いまも変わらない。

ハイボールはグラスの縁にはねた泡が美しく、炭酸がふっと暴れる感じも爽快だが、水割りはひたすらやさしい。何よりも香りを大事にしており、ゆるやかな風に舞う絹布のように滑らか。1杯目の軽やかな飲み物としても、飲んでいる合間のリフレッシングカクテルのような位置付けとしても楽しめる。

“Black&White”が並ぶ理由。

水割り
ダウンライトの明かりの下、氷が動くたびに光がゆらめく。水割りの奥は深い。たとえ、同じウイスキーを使って仕上げたとしても、その味わいはつくり手によって大きく変わる。
つくりかた
グラスに氷を入れ、スコッチウイスキー30mlを注ぐ。
つくりかた
グラスの7分目を目安に水を入れる。
つくりかた
グラスに添えている手が冷えてくるまでステアする。30回が目安。ステアをし過ぎると、氷がとけて水っぽくなってしまう。

「僕が『琥珀』を辞めて、すぐ近くのここにバーを開いた頃はお金もありませんでした。手に入る洋酒の数も少なかったし、とても高価で、店のバックバーは隙間があるくらいのものでした。そんな時代に、とてもよくしてくれた方がいたんです。『琥珀』時代からのお客様で、ドットウェルという洋酒の輸入会社に勤めてらして、“Black&White”を扱っていたんです。香りがよくて複雑味もあって、僕も気に入っていたウイスキーですが、そうそうまとめ買いもできません。そうしたら、彼が『お金は後でいいから』と言って、ドンと“Black&White”を届けてくれたのです。心意気がとてもありがたかったですね。いま、洋酒を取り巻く状況は大きく変わって、扱える種類は格段に増えました。でも彼への感謝でもあり、このバーの原点でもあるので、入り口の酒棚には、“Black&White”を並べているのです。もちろん、すべて中身が入っていますよ」

マスター
マスターが店に立つときは、どうしても手が離せないときを除いて、自分の顔を見に来た客を扉まで見送るのがスタイルだ。

――つづく。

店舗情報店舗情報

EST!
  • 【住所】東京都文京区湯島345-3 小林ビル1階
  • 【電話番号】03-3831-0403
  • 【営業時間】18:00~24:00
  • 【定休日】日曜
  • 【アクセス】東京メトロ「湯島駅」より1分

文:沼由美子 写真:渡部健五

沼 由美子

沼 由美子 (ライター・編集者)

横浜生まれ。バー巡りがライフワーク。とくに日本のバー文化の黎明期を支えてきた“おじいさんバーテンダー”にシビれる。醸造酒、蒸留酒も共に愛しており、フルーツブランデーに関しては東欧、フランス・アルザスの蒸留所を訪ねるほど惹かれている。最近は、まわれどまわれどその魅力が尽きることのない懐深き街、浅草を探訪する日々。