流行りのカクテルのような、派手な装飾などない。王道をいくごくシンプルな佇まいだ。バランスを考え抜いてたどり着いた1杯のカクテルに、バーテンダーが築いてきた世界観が見えてくる。
サイドカーは、1922年に刊行されたカクテルブック『Cocktails How to Mix Them』にそのレシピが載っており、創案者はロンドンにあった社交クラブ「バックスクラブ」のチーフバーテンダー・マクギャリーといわれている。
いずれにしても、約100年前から飲み継がれるスタンダードカクテルである。
ブランデーがベースで、オーソドックスなレシピは、オレンジの果皮が入るリキュールのホワイト・キュラソーと、レモンジュースをともにシェイクしたもの。
王道のカクテルゆえ、ベースのお酒が異なるカクテルの名も浸透している。
ジンがベースになるとホワイトレディ、ラムがベースだとX.Y.Z、ウォッカがベースだとバラライカというカクテルになり、林檎が原料のブランデー、カルヴァドスに替わるとアップルカーとなる。
多くのバーが、カクテルに用いるブランデーは現行で流通していて、熟成年数が浅く、比較的個性が出ていないものを選ぶのに対し、「EST!」で使うブランデーは、1980年代まで流通していた銘柄“カトン”のオールドボトル“特級品”を用いる。
カラメルのような甘味、30年以上も寝かせてあるというのに立ち上るフルーツ香、熟成による樽感も感じられる。
ストレートで飲んでも十分に愉しめるブランデーを、マスターの渡辺昭男さんは「味に深みが出るんですよ」と惜しげなく用いる。
差し出されたカクテルは、いたってシンプルな佇まいでいて、しっかり深い。
熟成したブランデーの深みが全体を覆い、レモンやオレンジの酸味、甘味と重なり合う。
全体的にまろやかな味わいなのは、マスターである渡辺さんのつくるカクテルすべてに共通している味わいだ。
古典的なレシピでは、ジュース類はレモンジュースのみ。そこに、オレンジジュースも入るのは、渡辺さんの考えからだった。
「熟成したブランデーを使うことで、味に深みは与えられます。でももっと柔らかい味わいにしたい。そこで合わせてみたのがオレンジジュースでした。コアントローというリキュールは、オレンジを使っています。そのオレンジの華やかな香りを補う役割として、フレッシュの果汁を合わせてみたのです。味が丸くなるでしょう?これは僕が店を開いた、46年前からのレシピですね」
完成したカクテルは、最近の流行りのカクテルのようなきらびやかな装飾はない。
でもそこに、季節がめぐってくるたびに、「あのカクテルが飲みたい」と頭に思い浮かぶような静かな衝撃と感動をもたらしてくれる。
――つづく。
文:沼由美子 写真:渡部健五