シリーズのトリを飾るのは、カクテルの王様として輝き続ける“マティーニ”。強くてシンプル。王道の一杯なのに、バーごとに味は異なり、ひとつとして同じものはない。「柔らかさ」「香りのよさ」が身上の「EST!」なら、マティーニはいかに?
「カクテルの王様」、あるいは「カクテルはこれに始まり、これに終わる」と称されるマティーニ。あまりにも有名なカクテルである。
代表的なレシピは、ジンと白ワインをベースに香草やスパイスを配合したベルモットのみ。薬草や香辛料を使ったビターズをふりかけたり、仕上げにレモンピールで香りをまとわせるのは、そのバーテンダーによるところ。シンプルの極みのようなカクテルなのだ。
そのルーツは定かではないが、現在のレシピに近いものが登場するのは1851年以降で、フランス生まれの辛口のベルモット“ノイリー・プラット”が、ニューオリンズに陸揚げされてからアメリカでドライタイプのマティーニの原形ができあがったという。
カクテル創世記からスタンダードなカクテルのひとつで、シンプルがゆえにバーテンダーごとにひとつとして同じ味わいはない。「このバーテンダーのマティーニを飲んでみたい」と思わせる魔力があり、時代を超えて「カクテルの王様」として輝き続けている。
ジンとベルモットを処方するのが基本のレシピ。だから、主体となるジン選びは、マティーニの味を決めるもっとも大きな要素となる。
「EST!」が使うのは、ゴードンのドライジンでアルコール度数47.3%のもの。この度数のものは2017年春に終売してしまったが、これまでのマティーニの味を変えないために、マスターのマスターの渡辺昭男さんは終売前に大量のボトルを買いためたという。
本来、キリリとした辛口のジンなのに、そして度数も相当高いのに、「EST!」のマティーニは、やっぱりまあるい。
マスターはこう語る。
「オレンジビターズを数滴入れているからかもしれませんね。ビターズは香草やスパイスを漬け込んだリキュールで、本来苦味が強いものです。僕が選ぶのは、オレンジの皮も入るもの。香りがよくて、ベルモットとともに氷をリンスするだけなのに飲み口が変にギンとこないんですよ」
ところで、バーの突き出しというものも、何気ないようでいて個性がでて興味深い。温かいコンソメスープが出るとこもあれば、洒落たオードブルが供されるところもある。
「EST!」は、“芝巻”とピーナッツと決まっている。一見、お茶うけのようだが、なぜこれに?
「海苔巻、品川巻ともいいますね。海苔は、ピートのきいた潮っぽい海の香りのするウイスキーに合うんですよ。これは、三重県桑名から取り寄せているものです。海苔の質がよくて、上品な風味と香りがあるでしょう。あとは、プランターズのカクテルピーナッツをね。昔からのメーカーのものですよ」
カウンターの端にはダイヤル式の黒電話。
流行りに迎合しないスタイルも、「EST!」のカクテルの味わいにつながっていく。
マスターは、現在、骨折と坐骨神経痛の療養のためにお店には立っておらず、次男の渡辺宗憲さんがバーを守っている。
「客の心で主(あるじ)せよ」
以前、マスターにモットーを訊ねたときに、さらさらと紙に書いた言葉である。
マスターに、たまに電話をすると電話の向こうで猫がミャーミャーと鳴いている。マスターの傍を離れないんだろうと察せられる。
「EST!」のカクテルが柔らかいのは、香りのよさや果実の使い方、リキュールの重ね方といったテクニックの部分も多分にあるが、つまるところバーテンダーの人柄も多分にあるのではないか。カクテルやお酒は想いで味わうところも大きいものだから。
いま、日本のバーテンディングは世界から評価されていて、日本のバー業界はとってもにぎやかだ。ミクソロジーにツイスト。新しいカクテルはとめどなく愉しい。
そう思えるのは、日本のバー黎明期からバーテンディグを切磋琢磨してきたパイオニアたちの存在があって、彼らが築いていたスタンダードカクテルを知っているからだ。
敬意をこめて、マティーニのグラスを傾ける。
スタンダードカクテルよ、「EST!」よ、永遠なれ。
――「『EST!』のカクテルブック」(了)
文:沼由美子 写真:渡部健五 参考文献:『新バーテンダーズマニュアル』(柴田書店)