凍えるような地面の下に、春は待っている。本誌連載、「『岬屋』の和菓子ごよみ」では、東京・渋谷にある上菓子店「岬屋」の季節の和菓子を、毎月紹介しています。WEBでは、本誌で紹介しきれなかった「おいしさの裏側」をお伝えしていきます。本誌連載と併せてお楽しみください。
連載は今回で最終回。作業場にお邪魔するのも最後と思うと寂しいが、「岬屋」を代表する菓子の一つ、「下萌え」で締めくくる。
茶の湯を学ぶ女性が主人公の映画、『日日是好日(にちにちこれこうじつ)』(同じくdancyuWEB連載「シネマとドラマのおいしい小噺」でも紹介。記事はこちら)の中でも印象的なシーンに登場していた菓子で、作業を見られる嬉しさに、歩みが早まる。
「あまり見ない形でしょう。他の店でもつくっていた菓子かどうかは、もうわからないんだけど」と主人の渡邊好樹さん。
「『下萌え』は、春の芽吹きのことだね。かぶっている土を押しのけて、新しい芽が出てきた瞬間を表しているんだ。生きていくためのエネルギーだよね」
地面を押し分けて割れたような表現が、この菓子の肝となる。どのようにつくるのか、見ていこう。
材料は、かるかん粉(うるち米の粉)、上南粉(もち米の粉)、漉し餡、白漉し餡と着色用の緑の色粉、卵白と卵黄だ。
まずは外側の時雨(しぐれ)生地づくり。漉し餡に白身1個分をたらし、黄身も加える。
「白身1、黄身は1/2の割合だね」
話しながら主人は、指先で餡を崩しつつ、卵を練り混ぜていく。
練るにつれて生地は白っぽくなり、滑らかになった。
「もともとこの菓子は、白身だけを使っていたようだね。後になって黄身を加えるようになって、より膨らむように加減したみたい」
ここに、上南粉とかるかん粉を加え、さらに混ぜ合わせる。
しゃもじで全体をなじませ、最後は、さわりの中でひとまとめにした。これで時雨生地のでき上がり。ポツポツと見える白い粒は上南粉だ。
「私がやっても、しゃもじだけでこんなにきれいに扱えないのよ」と、作業を見守っていた女将の英子さん。
「しゃもじに力を入れすぎると、しゃもじの先が浮くから取り残しができるんだよ」と主人。
次は、時雨生地の中に包む餡づくり。白漉し餡に、黄身を入れて練り、緑の色粉で色づけする。時雨生地には白身と黄身を入れたが、白漉し餡は黄身だけだ。
「黄身の方が、膨張率が高いから、こうすると外側の時雨生地よりも、内側の白漉し餡の方がよく膨らむ。その膨らみの差を利用して、表面が割れるようにしているわけ」
仕上げに色粉を混ぜると、黄身入りの白漉し餡は、明るい緑色になった。
さらしに包んで軽く揉み直した時雨生地を、小分けにしていく。ここからは包み手の女将さんも加わっての作業だ。
時雨生地を丸めて広げ、緑色の餡を少量のせる。
その上に、時雨生地とほぼ同量の漉し餡玉をのせ、外側の時雨生地を薄くのばして包み込むという流れ。
よく見ると、餡玉を親指で軽く押してくぼみをつくってから、緑の餡にかぶせている。
「緑の餡は、いい位置にとどめておきたいからね」と主人。
緑の餡のエリアが広がると生地が割れ過ぎてしまうから、漉し餡をかぶせ、中に閉じ込めるようにするのだとか。
すいすいすいと、手早く時雨生地を広げながら漉し餡を包んでいく。
生地の閉じ目を下にして形を整え、せいろに並べる。これで、最初にのせた緑の餡の部分が上にくるというわけだ。
「生地から少し緑が覗いていてもいいの。割れて表情がまた変わるから。包みものを蒸す時、普通は割れないように仕事をするものだけど、これは割れるようにやるの」
きれいに割れてもらわないと困るから、と主人は繰り返し言った。
仕上げは蒸しの作業。釜にのせて蒸気を当てる。
「ふつう、時雨生地を蒸すときは、途中で一度蓋を開けて“息を抜く”の。膨らみすぎないようにするためにね。でも、この生地は割れるように、圧力をかけ続けるよ」
5分ほど蒸したところで、主人は少し蓋を開けて中の様子をみた。「もう少し」と蓋を閉じ、火力を調整する。火加減で圧力をコントロールするのだ。
さぁ蒸し上がり。ぱくっと割れ目が広がって、眩しい緑色が見えた。
少し冷ましてから、手で包むようにして形を締めればでき上がり。時雨生地のぽつぽつとした小さな斑点は、雨粒がしみ込んだ土肌のように見える。
口に入れると、時雨生地はすぐに溶ける。餡とは思えない生地の軽さと柔らかさ、口溶けのよさに驚かされる。
「なんともいえない、独特な食感でしょう」と主人。
内側の緑色の餡、漉し餡も、それぞれ甘味が異なり、一口の中で、甘さのグラデーションが楽しめるのもいい。
おいしい菓子を食べてお茶を飲む。ただそれだけで気持ちが落ちつき、勇気づけられることもある。映画の中で、「下萌え」はそんな風に主人公の人生に寄り添っていた。静かだが、力強い。寒さを乗り越えた先にやってくる春の兆し――。そんな、希望をも感じさせてくれる菓子だ。
文:岡村理恵 写真:宮濱祐美子