2020年8月号の第一特集は「カレーとスパイス。」です。旅行作家の石田ゆうすけさんは、世界を自転車で回る旅に出た時、現地の人と同じものを食べることを信条としていました。日本人がインドで現地の料理を食べるとお腹を壊すという話はよく耳にしますが、石田さんのお腹事情はいかに――。
いつからかスパイスカレーという言葉が聞こえ始めて、いまではすっかり定着したように思えるが、よくよく考えると妙な言葉だ。カレーはスパイスでできているがな。
もともとはルウからつくる日本のカレーと区別するために生まれた造語のようで、そういう意味では非常に使い勝手がいいうえに、言葉に力があったのだろう。最近では言葉がひとり歩きして、独自の意味を持ち始め、日本のカレー文化発展に大きく貢献しているような印象さえある。
ただ、カレーの本場インドで「スパイスカレー」と言ったら、当然インド人たちはちんぷんかんぷんに違いない。カレーという言葉すらインドにはないのだから。
この話は有名なので僕も知ってはいたけれど、インドに来て初めてその意味するところがわかった。インドの料理は基本的にすべてカレー味なのだ(ものすごく乱暴にいえば)。
これには最初ほとほと困った。
インドに入った初日のことだ。
日本を出てから7年目、ずっと来たかった国にようやく入れたことにテンションも上がり、欲望のままに飲み食いした。衛生的にヤバそうな村のラッシーを飲み、アイスクリームを貪り食い、ターリーと呼ばれるカレー定食のようなものをたらふく食べ、食堂で出された生水もゴクゴク飲んだ。
インド入国記念にひとり浮かれて食べまくった面もあるが、この国に対する宣戦布告の意味合いもあったのだ。
これまでどの国でも現地の人と同じものを食べ、同じものを飲んできた。たまにお腹を壊すこともあるがすぐに治る。長旅をすれば体が慣れるのだ(たぶん)。
でもインドはそう簡単じゃない気がする。食あたりの悲惨な話はこれまでさんざん聞いてきた。
そこで入国初日から真っ向勝負を挑み、見事勝利して勢いをつけるとともに、さらなる自信につなげようというわけだ。インド産の苦いビールもしこたま飲んだ。
「プハーッ、これでどうじゃい、わっはっは」
土砂降りのような下痢は夜中から始まった。眠りの最中に猛烈なパルスが走って何度も跳ね起き、トイレに駆け込んでは頭を抱え、両眼に涙をにじませた。
翌朝になるとだいぶマシになっていたが、自転車をこぎだしてからも幾度となく草むらに駆け込んだ。
そして僕はインドにある無数の不思議のひとつに直面するのだ。
これだけ胃腸のトラブルが多そうな地域なのに、お腹にやさしい食事がまったく見当たらないのだ。どの料理も見事に刺激物、辛口カレー味で、僕がこのとき口にできたものは「チャパティ」という味気ない薄焼きパンだけだった。北インドの田舎の村はこればかりなのだ。米はたまにあるが、ナンはまずない。
このチャパティにしたって普通はカレーにつけて食べるものだが、それをバナナと食べた。でも3日もすれば飽きてしまい、見るのも苦痛になった。
一度インド人のおじさんに、あなたたちはお腹を下したときには何を食べるのか、とまっすぐ訊いてみた。おじさんの回答は速かった。
「チャパティ」
「……ほかには?」
おじさんは少し考えてから、「バナナ」と答えた。僕はすがる思いで「まだ何かあるでしょ?」となおも訊くと、彼は「うーん」と首をひねりながら、「わからない」と言った。
ある日、田舎町で焼きそばの屋台を発見した。カレー以外もあったんや!と喜び勇んで注文すると、出てきたのは真っ黒い焼きそばだ。食べた瞬間、口内で業火が燃え上がり、汗がドッと顔から噴き出した。
「カレーより辛いやんけ!」
辛いなんてもんじゃない。舌が火傷したように痛い。しかもなんだこの異常な塩からさは?なんだこのボソボソした粉っぽい麺は?これをおいしいと思う人がいるのか?
さすがに何かの間違いだろうと思い、それからも焼きそばの屋台を見つけるたびに食べてみた。最初の罰ゲームのような耐え難いのはなかったが、でもだいたい辛くてオイリーで、お腹にやさしい食べ物とは到底思えず、結局バナナとチャパティを口に押しこみ続けるしかなかったのだ。
お腹の土砂降りはいつも以上に長引いたが、2週間ほどでなんとか治まった。
熱さも喉元過ぎればなんとやらで、治ってからは疑問を抱くこともなくなったが、いまになってみればもっといろんな人に訊いたらよかったなと思う。お腹を下したらあなたたちは何を食べるのか?
というのも、スパイスが当たり前のインド人からすれば、カレーが弱った胃腸に悪い刺激物だというイメージはおそらくなくて、さまざまな効能を持つスパイスはまさに医食同源、お腹の不調時に食べるカレーみたいなものもあったんじゃないかなあと。
文:石田ゆうすけ