世界的にも有数の銘醸地として知られるボルドーには、日本人の造り手もいます。ミニマリズム的に造られた彼のワインは、海外から広く評価されている味わいです。ひとりの青年が異国の地で、ワイナリー開業を目指した20年に亘る奇跡の物語。
ボルドーでいま、ひとりの日本人栽培醸造家が、自らの人生の大きな一歩を踏み出している。
そのワインは、メドックのカベルネ・ソーヴィニヨンのイメージを、軽やかに逸脱してみせる。色は淡く、果実の香りが口中いっぱいに広がり、ピュアで透明感がある。それと同時に緻密さも感じられる。
ボルドーのなかでも名だたる有名シャトーがひしめく地、メドック。ここにドメーヌ・ウチダが設立されたのは2015年のこと。当主の内田修さんはこう語る。
「メドックの赤ワインは濃くて重いというイメージが一般的にありますよね。でも歴史をひも解くと、19世紀後半に“フレンチクラレット”と呼ばれてイギリスなどで高く評価されたのは、いまのワインよりかなり色調が淡く、軽いタイプだったんです。日本人的なミニマリズムとともに、そんな味わいを表現したいと思っています」
その銘柄名は「ミラクル」。名前に込めた想いを、内田さんはこう話す。
「伝統あるメドックで日本人が畑を借り、ガレージを改造した小さなカーヴで、まったくゼロからワインを造り始めることができた。20年前に自分が初めて渡仏したときからの長い歳月を振りかえると、それがまるで奇跡のように思えたんです。だから、この名前をつけました。ボルドーは伝統を持つだけに排他的で、他国の人がワイナリーを興すのは決して簡単ではない。いまもそうですが、昔はもっと難しかったんです」
内田さんは1977年、広島生まれ。実家は酒屋である。高校は岡山の名門校・興譲館へと進学。かつての藩校であり、全国大会出場を狙う強豪校で陸上の長距離選手として活躍し、寮生活を送った。
「強い選手がたくさんいたので、そのまま陸上の世界にとどまるよりは外の世界を見てみたいと思いました。高校卒業後、海外留学を考えたとき、広島出身なので原爆を落としたアメリカは嫌だ、と。ボルドー大学の付属語学学校の授業料が安かったので、そこを選んだんです」
その後、フランスの高校へと編入して大学入学資格を取得。ボルドー第2大学醸造部(現ISVV)を卒業する。
滞在中には「生きたフランス語を話したい」と、フランス全土の300以上のワイナリーを訪問した。いずれワインを造りたいと望むようになるが、6年間フランスに在住したあと一度帰国。関西のインポーターに4年間勤めた。
「ここでは近江商人の基本というか、商いの心構えを多く学びました。長いフランス生活である意味、自分は天狗のようになっていた。でもフランス語が話せてワインの知識があっても、ワインが売れなければ何にもならないと、販売の大切さを心底叩き込まれました。ワインを持って、大阪の事業所へ飛び込み営業に行って、1本も売れないまま帰ってくるような日々で。上司はみな厳しいながらも懐の深い指導をしてくれたので、すごく鍛えられましたね」
そしてついに、念願のワイナリー設立に至ったのは2015年。たまたま知り合いの樽業者から、あるぶどう栽培農家が高齢で畑仕事ができなくなっていると聞いて、60aの土地を借りた。ビオで栽培されているうえ、森に近く、畑が地続きなのも魅力だった。
「周囲の人からは、メドックはやめておけと言われました。ボルドーのなかでも土地の価格の安いアントル・ド・メールや南フランスのバニュルスもいいかなと考えたこともあります。でも僕はメドックで栽培されるカベルネ・ソーヴィニヨンが好きだし、他の人がやっているのとは違うことをやりたい、と思った。ワイナリーの立ち上げには通常、相当な資金がかかります。でも自分は資金はゼロだったんです。醸造機器なども始めは友人や知人から借りた。資金や高価な機械がなくても、たとえ外国人でも、ワイナリー経営ができるということを証明したかった」
ワイナリー創業までの日々は、苦難の連続だった。言葉の壁。人種の壁。思想の壁。異国では、誰に相談しても解決にいたらないことも多く、ひとつひとつの問題に向かい、悩み、考えるしかなかった。
初ヴィンテージを仕込むときも同様だった。
「ボルドーの伝統的な手法とは違う僕の醸造法に、反対する人がすごく多かったんです。周囲にはぶどうを上手くワインにできないのではないかと心配された。樽のなかで熟成しているあいだも不安ばかりの日々でした」
その醸造法がセミ・マセラシオン・カルボニックである。
ぶどうを収穫したあと手作業で軸や茎の部分を取り除き、ぶどうの実を潰さずに樽に入れて、自然と発酵が始まるのを待つ。一般的にはアルコール発酵をうながすために、ここで軽くぶどうを破砕することが多い。
ぶどうを潰さないと、粒のなかで発酵が始まる。それにより、ぶどう本来の香りや果実味が外に逃げずに閉じ込められて、色は淡いながらも風味豊かなワインに仕上がる。
「あまり凝縮したワインの味わいにしたくないと思っていたし、ビオで栽培している自分のぶどうにはこの醸造法がもっとも適していると感じたんです。やっとの思いでビン詰めして、自分のワインが初めて完成したときは、いまの自分にできるすべてのことはした、最善は尽くしたという気持ちでいっぱいでした。これでもし失敗したら、潔くワイン造りを辞めて日本に帰ろう、と決めていたんです。そのワインを試飲したとき、自然と出た言葉が“ミラクルだ!”でした」
幾多の苦労や犠牲のもと、造り上げることができたワインだった。けれどそのとき、自分がどれだけ多くの人々に助けてもらったかも、改めて実感した。
「それからしばらくは、感動の涙を流し続ける」日々だった。
初ヴィンテージのワインはすぐに完売となり、やがてその資金で機材などをひとつひとつ買い足していった。少しずつ畑も増やし、現在は1.2haになっている。ぶどう栽培もビオからビオディナミへと深化を遂げた。
内田さんのワインはいま、日本のみならず広く海外で評価されている。ドイツの新聞で紹介されたのが契機となり、現在はロンドンやニューヨークでも輸出が始まっている。
「まだまだ理想の状態ではありませんが、なにごともひとつひとつの積みかさねだと思っています。”MADE BY THE JAPANESE”のワインとして、日本人が造ると素晴らしい作品が生まれるんだということを、広く伝えていきたい。そうやって世界中で自分のワインが楽しまれることが僕の夢です」
その夢への挑戦は、まだ始まったばかりである。
――つづく。
文:鳥海美奈子 写真:Mathieu Anglada