半年ぶりに、南太平洋のオーストラリア・シドニー沖から遠洋漁船「誉丸」が帰還した。値決めを済ませ、明日に水揚げを控える宵、八洲水産によるねぎらいの宴が催された。心づくしの宴の様子を覗かせてもらった。
遠洋漁船「誉丸」が着岸したその日。翌日の水揚げを控えて、八洲水産の柴原毅社長は、船主である井上博孝さんと、船頭の山下浩明さんを誘って、清水の町へと繰り出した。
侠客(きょうかく)、清水の次郎長を育んだ歴史ある港町は、東海道五拾三次の宿場町でもある。ほんのりと艶のある歴史ある町をそぞろ歩けば、今朝、清水港に水揚げされた地の魚を提供する、旨そうな割烹や小料理屋に出くわす。
柴原さんが6ヶ月にも及ぶ遠洋航海の労を癒す宴会の場に選んだのは、八洲水産から仕入れたマグロを実際に提供している地元の鮨店だった。
「清水に末廣鮨あり」と全国にその名を轟せる同店は、マグロの仕入れを任されている八洲水産と二人三脚で、ミナミマグロの旨さを全国に知らしめた名店だ。
カウンターの真ん中で鮨を握る「末廣鮨」主人の望月榮次さんは、15歳で鮨職人を志し25歳で独立。一代で「末廣鮨」を清水一の繁盛店にのし上げた。
修業時代、マグロといえば国産の本マグロが主流だった。特に東京では、生の国産本マグロを置かなければ、一流の鮨店と認められなかった。
そんな時、インド洋でマグロの漁場が見つかった。築地市場には丸々と肥えた冷凍マグロがびっしり並んだという。
食べてみると、脂は本マグロに負けず、さっぱりとした味わいだった。
望月さんは独立する時、このマグロを店で使おうと心に決めたという。
「確かに現在に比べると冷凍や輸送などは悪かった。それでも、競り場に並ぶマグロの数も多く、品質は格段に良かったんです。ミナミマグロは、当時はインド洋で獲れるからインドマグロと呼ばれていました。ところが、そのマグロが清水港に水揚げされていることを知らず、わざわざ築地経由で仕入れていました。地元で水揚げされているなら、それに越したことはない。以来、店ではマグロといえばインドマグロとなりました」
実は、当時から清水港でマグロを扱っていたのが八洲水産だった。
そこで望月さんは選りすぐられたマグロを一本買いするようになる。
たちまち、この噂は東京にまで広がった。
90年代に入ると、このマグロを食べるために、全国から電車を乗り継いで清水にやってくる客も増えた。
そして、釣り上げてからの迅速な処理、誉丸が搭載するCASシステムに代表される冷凍技術の進化なども相まって、さらにマグロの品質は向上した。
望月さんは、これを契機にインドマグロを「ミナミマグロ」の名でを世に広めようと思い立ったのだった。
宴会はカウンターとは別に誂えられた2階の広間を貸し切って行われた。
まずは、八洲水産の柴原社長の音頭で乾杯。そして、駿河湾で獲れた海の幸が次々と登場する。
広間にも専用のカウンターがあって、そこで鮨を握るのは、二代目の望月之匡(ゆきまさ)さんだ。大トロ、カマトロ、中トロ、赤身。今日ばかりはマグロの大判振る舞いだ。
数ある握りの中でも目を引いたのは「ハガシ」という、他店ではあまり見ることができない握りだった。
之匡さんが説明する。
「これは背下という背の部位の中でも、筋の多い尻尾に近い部分なんです。普通、マグロは筋を断つように切りつけるのですが、これは筋から身を剥がすようにして取り出した部位なんです。筋がなく、適度に脂もあるので、口の中で溶けてしまいます。それでいて、マグロが最も動かしている筋肉なので、しっかりと味があります。その剥がした筋をさっと炙ってもいいですね。一本買いするからこそ、こうした希少部位を提供することができるのです」
柴原さんは、こうして実際にマグロを獲る船主、船頭と再会し、長い航海の話を聞きながら、去年、水揚げしたマグロの品質、状態について語り合う時間は、双方にとって、何より貴重な時間だと語る。
なにしろ半年に1度、場合によっては1年に1度、水揚げの時にしか直接、顔を合わせる機会がない。その上、今、話し合えるのは「去年」の魚の品質に関してだ。
柴原さんはこう話を続ける。
「たとえば、脂が例年に比べて薄かったけど、当時の海水温、潮の状態、マグロの群れの大きさはどうだったのか、とか、それが今年はどう変化するかと思うかなどの疑問を率直にぶつけます。もちろん、船頭は自分の言葉で答えを返してくれますし、私たちに対する要望も教えてくれます。時には酒も入っているし議論が白熱することもありますよ」
けれども、この宴会の席でのやり取りが、そのまま来年の水揚げされた魚の品質に直結するのだと言う。なにより驚くのは、柴原さんの父親の代から40年以上、やりとりを続けている船主、船頭もいるそうだ。
こうして築き上げられた信頼関係が世代を超える。そして、そんなやりとりを真剣な表情で見守るのが、八洲水産の営業担当など、若い従業員だ。
夕方6時に始まった宴会は時計の針が9時になっても終わらない。このあとは、また別の場所に移動して、これまた恒例の二次会が開催されるらしい。こうして、水揚げを控えた夜は更けてゆくのだ。
――つづく。
文:中原一歩 写真:鵜澤昭彦