「㐂寿司」のたこは、醤油とわさびではなく伝統のツメとともに供し、桜煮ではなく純粋にゆで上げて握る。むっちり弾力がありつつも、歯切れがよく柔らか。噛みしめるほどに旨味が満ちてくる。たこは“格闘”ともいえるような下処理を経て、口いっぱいに幸をもたらす鮨種になる。
鮨屋らしいのツマミといえば真っ先に思い浮かべるのはたこではないだろうか。
東京であれば、神奈川の久里浜や佐島、三崎など三浦半島で獲れた地だこをゆでたものが格別だ。漆塗りのカウンターに無造作にゴロっと置かれるたこぶつの山は、なんとも食欲をそそる。添えられた粗塩とわさびをチョコンとつけ口に放り込むと、海を彷彿とさせる香りがプンッと鼻腔に抜け、噛むごとに旨味が溢れ出す。冷酒をグビリとやる。その愉悦ったらない。
たこは関西では薄造りにして供されるが、ゆでたこは断然、たこぶつか厚めのそぎ切りがいい。ある程度の大きさがなければ香りと旨味を堪能できない。たこは「しゃぶるもの」と力説する酒飲みと遭遇したときは、思わず膝を打ったものである。
「㐂寿司」では、やはり三浦半島で獲れた地だこを活のまま仕入れる。
たこの旬は冬。身はむっちりと肥え、足も太くなる。
夏は産卵の季節。生まれたばかりの飯蛸は「海頭花(かいとうげ)」と呼ばれ、煮物にすると新いか同様に旨いが、鮨種としては使うことはない。
たこは最低でも2kg以上のものを選ぶ。店でゆでるのが鉄則だ。
四代目の油井一浩さんは、たこをゆでる作業そのものは難しくないが、ゆでる前の下処理がすべてと話す。
「たこは独特のぬめりがありますから、まずこれを手で揉んで落とすことが重要です。まだ生きているたこを全身の体重をかけ、力を込めて揉むのです。鮨屋ではこの下処理はもっぱら若い衆の仕事でした。前掛けと軍手は必需品です」
たこの下処理はかなりの重労働だ。決して見栄えのいいものでもない。
活のたこは内臓を取り出し、包丁を入れて頭の付け根にある目玉を取り除く。洗い桶に入れ、適量の塩を振ってから両手を使ってしっかりと全体を揉む。揉む。揉む。
そして、たこの身から白い泡状のぬめりが出てきてからが勝負だ。
全身の体重をかけながら、胴体はもちろん、吸盤や足先までしっかりと揉み込む。
ひたすら揉み込む。
ゴットン、ゴットンと、洗い桶にときに叩きつけることもある。
一浩さんは「これは、ストレス解消にいいんです」と苦笑いする。
30分ほどこれを繰り返す。やがて、たこはぐったりとし、白い泡状のぬめりも落ち着き、全体がサラっとしてくる。通常、この状態まで揉んだたこは、手でしごくようにしてぬめりを落とし、お湯で湯がくのが一般的だが「㐂寿司」は違う。
「店では揉んだたこをそのまま冷凍するんです。冷凍することでたこの繊維が程よく断ち切られて柔らかくなり、ゆで上げた時に独特の食感を生むのです。みなさん、驚かれますが、このやり方はうち独特ですね。ゆでる時は冷凍しておいたものを、その都度、お湯でゆで上げます。たこはゆでた当日が一番旨い。たこが好きな人の予約が入ると多めに用意します」
たこはツマミもいいが鮨種にもなる。握る時は身の断面が波打つように、包丁の刃を揺らすようにして薄く削ぐ。こうすることで空気に触れる面を増やし、たこの風味を引き出すのだ。たこの身は張りがあり、包丁を入れると反り返ってしまうので、切りつけた後に包丁のアゴでトントンと隠し包丁を入れる。
昔の職人はたことシャリを引っ付けるために海苔でくるりと巻いて供した。昔の人はこれを「バンドを巻く」と呼んだ。
たこはさっぱりと煮切り醤油もいいが、「㐂寿司」であれば伝統のツメでもいい。
噛みしめるとシャリとわさび、たこの旨味と濃厚なツメがあいまって、いつまでも口の中で咀嚼していたくなる。
一浩さんはたこは地味だけれども、鮨屋には欠かすことができない種だと語る。
「よその店では、たこを小豆と炊いた桜煮を出すところが多いですが、うちではもっぱらたこは揉んでゆで上げて使います。それだけに品質がよくなければおいしくありません。まったく獲れない年もありますが、今年は量も獲れているようで、ぐんと値段も落ち着きました。とはいえ、獲れすぎて毎日あの下処理に追われるのは勘弁してほしいです」
文:中原一歩 写真:岡本寿