永遠に続く店などあるわけがない。頭でわかってはいても、いざ閉店を目の当たりにすると、悲しみ、落ち込む。なんでもっと早く行かなかったのだ――。悔やまれるなぁ。今回は日本橋へと向かうはずが、シリーズ2度目となる閉店の憂き目にあって、急遽、豪徳寺へと進路を取った。果たして。
「大勝軒」は、東京のみならず全国いたるところにあって、系譜がちょっとややこしい。
日本最古のラーメン暖簾会といわれる「丸長のれん会」によると、原点は昭和23年に荻窪で創業した「丸長」で、そこから枝分かれした一派が「大勝軒」だ。店の人気も手伝って、弟子を大量に輩出し、凄まじい勢いで暖簾分けが広がっていった。
ただ僕が今回、いや、かねてより狙っていたのは、その系譜とは別の「大勝軒」で、東京は日本橋にある。友人から聞いてネットで検索し、外観を見た瞬間、「キターッ!」とテンションが跳ね上がった。経年で黒ずんだ3階建てのビルは、まるで香港の路地裏の集合住宅だ。日本橋にまだこんな建物が残っていたなんて。昭和8年創業らしい。戦火を逃れたのだ。その規模と迫力から、東京レトロ店の大ボスといった雰囲気である。
編集長のエベに相談すると、この店を知っていたようで、「そりゃいいですね!冷やし中華がうまいですよ」と言う。それなら夏に行こう、となった。
それから約半年後の6月某日、満を持して「大勝軒」を目指すことになり、場所の確認のために、再びネットで検索すると、ある言葉が目に入り、一瞬、頭が真っ白になった。……閉店。
「う、うそやろ?」
2019年の4月26日のことらしい。2ヶ月前じゃないか。
「またか……」
本シリーズ第1話の「おはる」が思い出された。
戦後の高度成長期から50~70年。店の老朽化に店主の高齢化、そこに新元号、さらには東京五輪に合わせた再開発……。店をひと区切り、と考える店主がいても不思議じゃない。昭和の店が人知れず、パタパタとドミノ倒しのように看板を下ろしていく。
「急がなきゃ……」
ひとりで勝手に焦ってしまった。
脱力感を覚えつつ、ほかにいい店がないか、ネットの中をうろうろさまよっていると……ん?
「あった!」
すごい。昭和のラーメン店のジオラマみたいだ。えっ、なにこの値段。ラーメンが250円!?店主は96歳?
豪徳寺の「満来」という店だ。
東京はやっぱり、おもしろいね。まるで巨大な森だ。草をかき分けかき分け探せば、まだまだお宝が隠れている。……ん?
「ま、また……」
夢か現か、再び“閉店”の文字。脳の奥から、ドミノの倒れる音が聞こえてきた。パタパタパタ……。
いつ閉店したという情報はなかったが、2016年から情報が途絶えている。あきらめきれずに、いろいろ見ていると、ある画像に目が留まった。日付は2018年の11月だ。なのに店に暖簾が出ている。もしかして……。
「満来、復活」などで検索してみるが、何も出なかった。ええい、行ってみよう。ネット内をうろうろするより、自分の目で見たほうが速い。
豪徳寺は、僕の住む阿佐ヶ谷からだと、ほぼ真南だ。いつもの如く、方位磁石を見ながら、南の方角にハンドルを向け、ペダルをこいでいく。
広々した緑の多い住宅地に出た。かつての「阿佐ヶ谷住宅」だ。
緑あふれる共有空間が、集団生活にどう作用するか――をテーマに、昭和33年、なかば実験的につくられた団地だ。広大な野原に、点々と長屋が立つ様子は、どこか幻想的で、いつもカメラを携えた人がいた。写真集まで出版されたのだ。
その阿佐ヶ谷住宅も、老朽化を理由に再開発が計画され、反対活動が起こったが、結局、2013年に工事が始まった。緑地が引っ剥がされる様子を見たときは、吐き気がした。
それ以来の来訪だった。どれだけひどくなったか見て、こきおろしてやろう。そんなサディスティックな気持ちで見てまわると……あれ?
「ええやん……」
どこに通じているんだろう、と思わせる謎めいた小路に、あふれる緑。「阿佐ヶ谷住宅」のエッセンスが受け継がれている。
僕は南紀白浜という観光地で、切り崩されていく山を見て育ったので、開発という言葉にアレルギーのような憎悪を抱いている。でも、開発を常に改悪だと考えるのは、案外、懐古趣味にとらわれたジジイの偏見かもしれないな。
さらに南へと下る。……ん?なんか変だな。太陽の位置がさっきと違う。
バッグにつけた方位磁石に目を落とすと、うわ、北に向かってる。真逆ではないか。いつの間にこうなったんだ?
僕は極度の方向音痴で、自転車で世界を回ったときも、てんで違う方向に走って、昼過ぎにやっと気づき、同じ道をまた半日かけて戻って、その朝出た宿に再び投宿し、「この1日はなんだったんだ」と悲嘆に暮れる、なんてこともあった。
スタートから約2時間、前方に小田急線の高架が見えてきた。経堂駅だ。惜しい。豪徳寺はもうひと駅、東寄りだった。
高架沿いに東へと走る。豪徳寺に近づくにつれ、町に鬱蒼とした緑が増え、鎌倉のような雰囲気になり、重厚なレトロ建築が増えてきた。古くはお城があった土地で、城下町として栄えたらしい。
やがて豪徳寺駅に到着。小さな商店街があった。自転車をおりて、商店街の中を押して歩く。
「満来」が現れた。
「やっぱり……」
店は残っていたが、長い間、使われていない様子だった。
店頭に立てられていたお品書きには「ラーメン並300円」となっていた。最後は値上がりしたのか。
隣のお茶屋さんから、おばさんが出てきたので、すみません、と声を掛け、「ここ、ずっと閉まってるんですか?」と聞いてみた。おばさんはいきなり話しかけられたにもかかわらず、待ってました、といわんばかりに、「そうなのよ。ラーメンおいしかったんだけどねえ」としみじみ言う。
「去年の11月に暖簾が出ている写真を見たんですが……」
「もうずっと閉まってるわよ。ご家族の方がたまに来て、掃除してるけどね」
そのとき暖簾を出したのだろうか。ともあれ、隣人が言うのだから間違いない。いまはやっていないのだ。残念だけれど、確証を得て、霧だけは晴れた。
8年ほど前に初代のおじいさんが亡くなってから、息子夫婦が続けていたそうだが、3年ほど前に息子さんも亡くなられ、実質閉店したようだ。
おばさんは次々に昔の話をしてくれた。
「おじいさんは90過ぎても岡持ちを持ってあちこち出前してたの。元気な人でね、ボウリングが得意だった。俺が生きているあいだは200円から値上げしないって言ってましたね」
「200円だったんですか?……それでも、おいしかった?」
「おいしかったわよ~。メンマやチャーシューもちゃんと入っていたわ。ほかのもおいしかった。餃子も焼飯も。どれだけお腹いっぱい食べても1,000円しなかったわ。私、よく出前頼んでたの」
「えっ、隣なのに?」
「そう、いつも混んでたからね」
まわりの店の人たちもやってきて、立ち話に加わった。向かいの果物店は戦後すぐにここで商いを始めたそうだ。
「『満来』さんはウチのすぐあとだったかな。最初はラーメンが35円でしたよ」
その頃から店を始めた店主が、60年以上にも渡って厨房に立ち続けた例は、東京でも珍しいんじゃないだろうか。老舗の多くはもっと早く代替わりし、二代目、三代目が世の中に合わせて値上げしている。
「満来」の店主は、ひとりで、35円から何度も何度も、きっと心苦しい思いで、値上げしてきたのだ。もうこれ以上は値上げできない、という上限が200円だったのかもしれない。
話の中心は次第に、この商店街の歴史になっていった。お茶屋のおばさんが言う。
「ここはマラソン横丁って呼ばれてたのよ。出勤途中のサラリーマンたちが乗り換えで走ってたの」
豪徳寺駅と山下駅の連絡路になっているのだ。ラッシュ時の込み具合が、いまとは比較にならなかった時代を思うと、無数の足音がどこからか聞こえ、土埃が目に浮かぶようだった。
紳士服店のダンディーなおじさんは「ウチはね、もとは目黒だったんだけど、この商店街のレトロな雰囲気が気に入って、15年ぐらい前に越してきたんだ。そしたら、いつの間にかアタシ自身がレトロになっちゃった。まったく、しょうがねえなあ」と噺家のように言った。
ほかに古くからやっているラーメン店がないか訊くと、隣駅の梅が丘にそんな店があったかな、とお茶屋さんが言った。
礼を言って、彼らと別れ、ペダルを踏み出した。せっかくだから先に豪徳寺を見ていこう。
走り出してすぐ、横道に赤暖簾が見えた。気になり、見にいってみると……わっ!
「めっちゃいいのがあるやん!」
しかも丸長!「大勝軒」の原点、荻窪の丸長の系列店じゃないの?
よし、ここにしよう。
――つづく。
文・写真:石田ゆうすけ