一皿目は麻婆豆腐。日本の中華料理においては、王道中の王道にして、不思議なくらい同じ味のものがない。「中洞」のそれは、フツフツと発酵真っ最中の豆板醤を用いるのが最大の秘訣だった。その豆板醤を、毎日かき混ぜるたびに、理想のおいしさを願って、本気で祈りを捧げている。
「麻婆豆腐は、店の看板メニューにしたかった料理です。中華料理の世界に入った時から、いろんな店の麻婆豆腐を食べまくってきました。行きついたのは“麻婆豆腐は豆板醤と豆腐である”という理解でした」
「四川家庭料理 中洞」店主の中洞新司(なかほらしんじ)さんは、そう語る。
色味、コク、香り、辛味。
それらを理想に近づけたくて、豆板醤にはひと際、心を砕く。
「中洞」の豆板醤は、厨房に置かれた樽の中でフツフツと小さな泡を立てて発酵している。
3種の豆板醤をブレンドし、さらに清酒を加えて混ぜ合わせたものだ。
「空気に触れさせて発酵を促すために、毎日かき混ぜます。その時、『おいしくなれ』って祈りながら混ぜるんです。本気で念じるんですよ。こうすれば発酵するって誰に教わったわけではなく、試してみてたどり着きました。塩気の角が取れて、コクと旨味が増しました。だから、砂糖や旨味調味料を入れる必要もないんです」
極めてシンプルな調味料でつくられた麻婆豆腐は、豆板醤の深いコクと旨味が冴えている。
砂糖はほぼ使わない。旨味調味料も使わない。
だから辛いのにやさしく、油は使っているのに軽い。
そのままでもおいしく、ごはんにかけたらもう箸が止まらない。
中洞さんの「本気の祈り」は、確実に効いている。
――明日につづく。
文:沼由美子 写真:森本菜穂子