東京・新大久保「イスラム横丁」をゆく。
断食と喜びのラマダン。

断食と喜びのラマダン。

ラマダンとはイスラム暦の9月で、ムスリム(イスラム教徒)にとっては「聖なる月」。このときに行われる断食は、われわれ日本人が漠然と考えている「空腹と闘う“苦行”」とはどうやら違うらしい。実際のところ、ムスリムにとってラマダンはどのようなものなのだろうか?断食と日没後の食事「イフタール」を1日体験するため、東京は代々木上原にある、日本最大のモスク「東京ジャーミイ」に向かった。

ラマダンはムスリムにとって、待ちに待った1ヶ月なのだ。

大きな誤解をしていた。ラマダンとは断食のことであり、空腹と闘う“苦行”だと。
私の知っている断食といえば、デトックスやダイエットを目的とした「ファスティング」や、テレビで観たことのある比叡山延暦寺の、9日間断食不眠の荒行である「堂入り」くらい。どちらも特殊すぎて、日常生活からは縁遠いものだ。
なのに、ムスリム(イスラム教徒)は違う。仏教の限られたお坊さんの修行とは異なり、在家信者が断食を行なう。しかも、約1ヶ月も続けるなんて!過酷すぎやしない?
……そう思い込んでいたのだ。「東京ジャーミイ」を訪れるまでは。そして広報担当の下山茂さんと出会うまでは。

下山茂さん
下山茂(しもやま・しげる)さん
東京ジャーミイ・トルコ文化センターの広報・出版担当。1949年、岡山県生まれ。1969年、早稲田大学政治経済学部入学。大学2年のとき、早稲田大学第二次ナイル川全域調査隊としてアフリカのスーダンへ渡り、ムスリムの村に滞在。そのときの彼らのホスピタリティにいたく感動し、自らもムスリムとなることを決意する。27歳のときに改宗。ムスリム名はアブドゥル・カリームさん。

代々木上原駅の改札を抜けて緩やかな坂道を登ると、荘厳な建物が突如、目の前に現れる。「東京ジャーミイ」だ。前身は「東京回教礼拝堂」といい、主にトルコ全土から集められた寄付金で2000年に竣工した。東京はもとより遠方からもムスリムが訪れる、日本最大のモスクである。

東京ジャーミイ
今回の舞台である「東京ジャーミイ」。建物はオスマン朝のモスクを再現しており、丸いドームと高いミナレット(尖塔)が目印。電車の車窓からもよく見える。
正面入口
正面入口上の大理石の壁には、日本語で「東京ジャーミイ」と彫刻されている。

「東京ジャーミイ」を訪れたのは、ラマダン真っ只中の5月下旬。額に汗がにじむ蒸し暑い日だった。取材メンバーは「イスラム横丁」取材時の、写真家の阪本勇さん、編集担当の星野一樹さん、ライター佐々木。ムスリムの方々の気持ちに少しでも近づきたいと、ほぼ飲まず食わずで集合した(と言いつつ、その日すでに星野さんは水、阪本さんは朝食を少々、佐々木は水とトローチを口にしていた)。

時計の針は午後4時を指していた。空腹でさぞやピリピリしたムードでは、と勝手な想像をしていたが、モスク全体を覆っていたのは、まったり、のんびりとしたピースフルな空気。パキスタン、トルコ、インドネシア、中国……と、国籍もさまざまなムスリムが、穏やかな表情で談笑していた。あれ?苦行っぽさが感じられないぞ?

館内
「東京ジャーミイ」はムスリム以外の人にも開放しており、開館時間内であれば予約なしで見学ができる。礼拝の時間以外はこの通り、誰もがリラックスして過ごしていた。
オスマン・トルコ様式の伝統的な意匠
「東京ジャーミイ」正面の扉の幾何学模様をはじめ、オスマン・トルコ様式の伝統的な意匠が各所に施される。

「そもそもラマダンのこと、ほとんど知らないですよね」
基本的なことから、下山さんに教えていただくことにした。

「ラマダンって断食のことですよ、ね?」
「厳密には違います。ラマダンというのは、イスラム暦の9月のことです」
「イスラム暦?西暦とは数え方が違うんですか」
「イスラム暦も西暦と同じように12月までありますが、西暦よりも1ヶ月の日数が短いんです。イスラム暦は月の運行で決まります。今年のラマダン月は西暦で5月6日から6月3日までですが、当然ながら年によって時期がずれます。日本の真夏にラマダン月がくることもあれば、寒い時期に当たることもある。ラマダン月がくると、ムスリムは毎日サウムをします」

夕日が差し込む礼拝堂で、メッカの方角に向かってサラートするムスリムの男性
夕日が差し込む礼拝堂で、メッカの方角に向かってサラートするムスリムの男性。日没もそろそろだ。
アラビア文字や幾何学文様、植物文様を配したモスクの天井
アラビア文字や幾何学文様、植物文様を配したモスクの天井。その美しさに目を奪われる。

「サウムとは?」
「意味合いとしては、仏教や神道などで、飲食や行動を慎んで、心身を清める『斎戒』に近いでしょうか。断食もサウムのひとつです」
「なるほど。でも、なぜ、ラマダン月に断食をするのでしょうか」
「預言者ムハンマドがアッラーの神から啓示を授かった神聖な月だからです」
「ううむ、ちょっと難しいけれど、ムスリムにとって大事な月であることはわかりました。ところで、断食はムスリムであれば、誰もが行わなくてはいけないのですか」
「高齢者、妊婦、病人など、断食できない人は除きます。その代わりに、貧しい人への施しなどを行うんです。小さな子供も除きます」

ムスリムのご夫妻
ムスリムのご夫妻。左に立つマーさんは中国の大連で、ヘヴンさんはカナダのバンクーバーで仕事をしている。「東京ジャーミイ」で久しぶりの再会を果たした。
頭髪を覆う布(ヒジャーブ)
女性がモスクに入るときには頭髪を覆う布(ヒジャーブ)をまとうが、持っていない人のために無料で貸し出している。

「子供は何歳頃から断食を始めるのですか」
「各家庭で異なりますが、男女ともに10代前半頃から。女性は初潮がくると始めるケースが多いです。いきなり1ヶ月断食するのではなく、3日に1回断食するなど、少しずつ慣らしていくんです」
「慣らしていくとはいえ、断食は辛そうだなあ……。もし、お腹がすいて食べちゃったら罰せられるんですか」
「これはね、法律やルールではなく、信仰ですから、罰せられるなんてことはありません。それにね、そもそもネガティブなものじゃないの、ラマダンは。ムスリムにとってラマダンは待ちに待った1ヶ月。聖なる月を迎えることに、皆ワクワクするんです」
「えっ、ワクワク、ですか!」

ステンドグラス
モスク内の、繊細かつ鮮やかなステンドグラスは一見の価値あり。
ステンドグラスが虹色に反射する
暮れゆく陽を受け、ステンドグラスが虹色に反射する。3階の手すりの向こうは女性専用の礼拝スペース。

日没後の食事、イフタールとは?

ラマダンがワクワクする月とは、驚いた。
「ラマダン月が近づくと、イスラム教の国ではモスクや市場がお祭りのように美しくデコレーションされるんです。イスラムの国では労働時間が9時から15時と短縮されることがあります」と下山さん。
「ラマダンの後半になると、ムスリムはたくさんのお土産を買って、日本のお盆のように帰省するんです。そうして、ラマダン明けのイードという祝日を迎え、家族や親戚でお祝いします。イードは日本のお正月のようなものです」
断食を頑張った先には楽しいお祭りやお祝いが待っている。その達成感は実際に行なった者でなければわからない“喜び”だと、下山さんは教えてくださった。

コーランを読む
ラマダン月の1ヶ月間、ムスリムはコーランを読み、神を意識して、悪事を遠ざけ、善行に励む。
パキスタン出身のイブニー・フセインさん
パキスタン出身のイブニー・フセインさん。埼玉県八潮市から礼拝に訪れていた。「あなたも私も兄弟姉妹」と言って、私に「アイシャ香織」とムスリム名をつけてくれた。

さらに「ラマダンの断食には、6つの意義があるんです」と下山さんは続けた。
6つの意義とは次の通りだ。

1. 忍耐……「我慢」ができるのは人間だけに備わった特性。断食をすることで忍耐力を身につける
2. 感謝……水が飲めること、一切れのパンを食べられることに感謝する
3. 施し……自らお腹をすかせることで、食べることができない貧しい人の気持ちを知り、施しをする
4. リセット……断食をすることで、心身をリセット、クリーンにする
5. 活性化……一定の飢餓状態は細胞が活性化する
6. 絆……日没後の食事「イフタール」により、人と人との絆が深まる

「断食といっても、日没後にイフタール、夜明け前にスフールという二度の食事をとるので、1日中飲まず食わずというわけではありません」
今まさにイフタールの仕込みをしているので、見学しませんかと下山さんに促され、「東京ジャーミイ」の厨房を見せていただいた。

トルコ共和国から派遣されたシェフ、アハメッドさん
厨房ではトルコ共和国から派遣されたシェフのアハメッドさんがイフタールの仕込みをしていた。2018年のラマダン月に続き、2度目の来日だとか。
ビーフキョフテ(牛肉の肉団子)の煮込み
ビーフキョフテ(牛肉の肉団子)の煮込み。肉団子のほか、パプリカ、にんじん、グリーンピースなど色とりどりの野菜も加えた、具だくさんでボリュームたっぷりのメインディッシュ。

厨房ではトルコ人シェフが大鍋で調理をしていた。スパイスとトマトの香りが、空腹を刺激する。鍋を覗くと、肉団子や野菜がゴロゴロ入った煮込みだった。
「いやあ、うまそうだなあ」「唾液がしみ出してくるわ」
断食紛いなことをしている取材チームのお腹がグーグー鳴る。

すると、館内にアザーン(礼拝の時間を知らせる合図)が流れ始めた。「日没のマグリブの礼拝が始まります。礼拝を終えたら、いよいよイフタールの時間です。みなさんも一緒に食べましょう!」。下山さんがワクワクしているように見える。

イフタールとはどんな食事なのか、改めて聞いてみると、「そうですねえ、たとえるならば、夏祭りで神輿を担ぐ前に、子どもたちみんなで食べるカレーライス。あの美味しさだね」。
うわあ、最高ですね!
「美味しいだけじゃなくて、みんなで食べることそのものが何よりも幸せでしょう。ラマダンはそれが、1ヶ月続くんですよ」
うわあ、うわあ、最高ですね!そりゃ、ワクワクするに決まってます!

「それじゃあ、再びモスクに戻りましょう」

大量のじゃがいも
厨房の別の鍋には、大量のじゃがいもが。さて、どんな料理になるのだろう?

――つづく。

文:佐々木香織 写真:阪本勇

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佐々木 香織(ライター)

福島出身の父と宮城出身の母から生まれ、東北の血が流れる初老の編集ライター。墨田区在住。食べることと飲むことが好き。お酒は何でも飲むが、とくに日本酒と焼酎ラヴァー。おもな仕事は新聞やウェブでの連載、雑誌や書籍の編集・取材・執筆。テーマは食べもの、お酒、着物など。