ラマダンとはイスラム暦の9月で、ムスリム(イスラム教徒)にとっては「聖なる月」。このときに行われる断食は、われわれ日本人が漠然と考えている「空腹と闘う“苦行”」とはどうやら違うらしい。実際のところ、ムスリムにとってラマダンはどのようなものなのだろうか?断食と日没後の食事「イフタール」を1日体験するため、東京は代々木上原にある、日本最大のモスク「東京ジャーミイ」に向かった。
大きな誤解をしていた。ラマダンとは断食のことであり、空腹と闘う“苦行”だと。
私の知っている断食といえば、デトックスやダイエットを目的とした「ファスティング」や、テレビで観たことのある比叡山延暦寺の、9日間断食不眠の荒行である「堂入り」くらい。どちらも特殊すぎて、日常生活からは縁遠いものだ。
なのに、ムスリム(イスラム教徒)は違う。仏教の限られたお坊さんの修行とは異なり、在家信者が断食を行なう。しかも、約1ヶ月も続けるなんて!過酷すぎやしない?
……そう思い込んでいたのだ。「東京ジャーミイ」を訪れるまでは。そして広報担当の下山茂さんと出会うまでは。
代々木上原駅の改札を抜けて緩やかな坂道を登ると、荘厳な建物が突如、目の前に現れる。「東京ジャーミイ」だ。前身は「東京回教礼拝堂」といい、主にトルコ全土から集められた寄付金で2000年に竣工した。東京はもとより遠方からもムスリムが訪れる、日本最大のモスクである。
「東京ジャーミイ」を訪れたのは、ラマダン真っ只中の5月下旬。額に汗がにじむ蒸し暑い日だった。取材メンバーは「イスラム横丁」取材時の、写真家の阪本勇さん、編集担当の星野一樹さん、ライター佐々木。ムスリムの方々の気持ちに少しでも近づきたいと、ほぼ飲まず食わずで集合した(と言いつつ、その日すでに星野さんは水、阪本さんは朝食を少々、佐々木は水とトローチを口にしていた)。
時計の針は午後4時を指していた。空腹でさぞやピリピリしたムードでは、と勝手な想像をしていたが、モスク全体を覆っていたのは、まったり、のんびりとしたピースフルな空気。パキスタン、トルコ、インドネシア、中国……と、国籍もさまざまなムスリムが、穏やかな表情で談笑していた。あれ?苦行っぽさが感じられないぞ?
「そもそもラマダンのこと、ほとんど知らないですよね」
基本的なことから、下山さんに教えていただくことにした。
「ラマダンって断食のことですよ、ね?」
「厳密には違います。ラマダンというのは、イスラム暦の9月のことです」
「イスラム暦?西暦とは数え方が違うんですか」
「イスラム暦も西暦と同じように12月までありますが、西暦よりも1ヶ月の日数が短いんです。イスラム暦は月の運行で決まります。今年のラマダン月は西暦で5月6日から6月3日までですが、当然ながら年によって時期がずれます。日本の真夏にラマダン月がくることもあれば、寒い時期に当たることもある。ラマダン月がくると、ムスリムは毎日サウムをします」
「サウムとは?」
「意味合いとしては、仏教や神道などで、飲食や行動を慎んで、心身を清める『斎戒』に近いでしょうか。断食もサウムのひとつです」
「なるほど。でも、なぜ、ラマダン月に断食をするのでしょうか」
「預言者ムハンマドがアッラーの神から啓示を授かった神聖な月だからです」
「ううむ、ちょっと難しいけれど、ムスリムにとって大事な月であることはわかりました。ところで、断食はムスリムであれば、誰もが行わなくてはいけないのですか」
「高齢者、妊婦、病人など、断食できない人は除きます。その代わりに、貧しい人への施しなどを行うんです。小さな子供も除きます」
「子供は何歳頃から断食を始めるのですか」
「各家庭で異なりますが、男女ともに10代前半頃から。女性は初潮がくると始めるケースが多いです。いきなり1ヶ月断食するのではなく、3日に1回断食するなど、少しずつ慣らしていくんです」
「慣らしていくとはいえ、断食は辛そうだなあ……。もし、お腹がすいて食べちゃったら罰せられるんですか」
「これはね、法律やルールではなく、信仰ですから、罰せられるなんてことはありません。それにね、そもそもネガティブなものじゃないの、ラマダンは。ムスリムにとってラマダンは待ちに待った1ヶ月。聖なる月を迎えることに、皆ワクワクするんです」
「えっ、ワクワク、ですか!」
ラマダンがワクワクする月とは、驚いた。
「ラマダン月が近づくと、イスラム教の国ではモスクや市場がお祭りのように美しくデコレーションされるんです。イスラムの国では労働時間が9時から15時と短縮されることがあります」と下山さん。
「ラマダンの後半になると、ムスリムはたくさんのお土産を買って、日本のお盆のように帰省するんです。そうして、ラマダン明けのイードという祝日を迎え、家族や親戚でお祝いします。イードは日本のお正月のようなものです」
断食を頑張った先には楽しいお祭りやお祝いが待っている。その達成感は実際に行なった者でなければわからない“喜び”だと、下山さんは教えてくださった。
さらに「ラマダンの断食には、6つの意義があるんです」と下山さんは続けた。
6つの意義とは次の通りだ。
1. 忍耐……「我慢」ができるのは人間だけに備わった特性。断食をすることで忍耐力を身につける
2. 感謝……水が飲めること、一切れのパンを食べられることに感謝する
3. 施し……自らお腹をすかせることで、食べることができない貧しい人の気持ちを知り、施しをする
4. リセット……断食をすることで、心身をリセット、クリーンにする
5. 活性化……一定の飢餓状態は細胞が活性化する
6. 絆……日没後の食事「イフタール」により、人と人との絆が深まる
「断食といっても、日没後にイフタール、夜明け前にスフールという二度の食事をとるので、1日中飲まず食わずというわけではありません」
今まさにイフタールの仕込みをしているので、見学しませんかと下山さんに促され、「東京ジャーミイ」の厨房を見せていただいた。
厨房ではトルコ人シェフが大鍋で調理をしていた。スパイスとトマトの香りが、空腹を刺激する。鍋を覗くと、肉団子や野菜がゴロゴロ入った煮込みだった。
「いやあ、うまそうだなあ」「唾液がしみ出してくるわ」
断食紛いなことをしている取材チームのお腹がグーグー鳴る。
すると、館内にアザーン(礼拝の時間を知らせる合図)が流れ始めた。「日没のマグリブの礼拝が始まります。礼拝を終えたら、いよいよイフタールの時間です。みなさんも一緒に食べましょう!」。下山さんがワクワクしているように見える。
イフタールとはどんな食事なのか、改めて聞いてみると、「そうですねえ、たとえるならば、夏祭りで神輿を担ぐ前に、子どもたちみんなで食べるカレーライス。あの美味しさだね」。
うわあ、最高ですね!
「美味しいだけじゃなくて、みんなで食べることそのものが何よりも幸せでしょう。ラマダンはそれが、1ヶ月続くんですよ」
うわあ、うわあ、最高ですね!そりゃ、ワクワクするに決まってます!
「それじゃあ、再びモスクに戻りましょう」
――つづく。
文:佐々木香織 写真:阪本勇