前回、店主の爆走カーに必死でついていって(いや、全然ついていけなかったけど)、山の水を汲んできた。今回は麺打ち作業の現場に潜入。店主に言われた通り、夜中2時に店に向かうと、静まり返った店内で50kgものうどんを黙々と打ち続ける職人の姿があった。
うどん屋「駕籠休み」は、店主のラオウ氏も強烈だが、外観のインパクトもすごい。手書きの墨字が店の壁を埋め尽くしている。《地粉専門》《頑固こだわり》などなど。田舎の国道沿いにありそうな店だが、ここは埼玉県の大宮。ビルが並ぶ幹線道沿いだ。
ところが、夜中2時に行ってみると、様子が一変していた。あたりは真っ暗で、森のような静寂に覆われている。ひと気も交通量もなく、本当に田舎の国道みたいだ。
そんな中でただ一点、白い灯がともっていた。
「駕籠休み」の店頭の麺打ち場だ。ガラス張りになっている。暗闇にポツンと浮かんだ白い部屋の中で、巨漢の男性がひとり、せっせと動いていた。ラオウ、もとい店主の井島秋三さんだ。
「なんだお前ら、ほんとに来たのかよ」
井島さんは本当に意外そうな顔で言う。夜中2時に来いって言ったのアンタだろ!とは、とても言えず、「そりゃ来ますよ~」と太鼓持ちのように追従笑いをした。
「ま、そこで見てろ」
井島さんはそう言って麺を打ち続けた。生地を麺棒で伸ばし、打粉をして、麺棒に巻き付け、また打粉、再び伸ばし、また打粉をして、折り畳み、包丁で切る。速い速い。急いでいる様子はないのに、気が付けば生地がうどんになっている。まるで手品のように。動きがなめらかで、無駄がない。職人が見せる完成された美しさだ。
夜のしじまに、ラジオからチューリップの『青春の影』が流れている。昭和だなぁ。麺を切る音。トントントン。
午前3時、お弟子さんがやってきた。この店のうどんに衝撃を受け、40代にして脱サラし、ラオウに弟子入りした元プロキックボクサーだ。ガラス越しにラオウの動きを凝視している。技を盗もうとする一途な目。何かに憑かれたように、両手が宙を舞い始めた。ラオウの手と同じ動きだ。うおお、麺打ちの素振りだ!
やがてラオウが出てきて、お弟子さんと代わった。最後だけ少し切らせるらしい。
「俺の麺打ち、速かっただろ。あれでも遅くしたんだ。写真撮りやすいようにな」
「ええっ?」
あれで遅かったのか、という驚きより、下々の僕らにラオウが配慮した、という驚きのほうが大きかった。武闘派のお弟子さんも手慣れた感じだが、確かに倍ぐらい時間がかかっている。
「普通の職人は10分ぐらいかかるけど、俺は4分半だ。打つスピードが違うと食感が違ってくるんだよ。全然違う。なんでだかわかるか?」
「直球をとらえやすくなるから?」
「そりゃ野球の話だろ!時間がかかるってことは、手が生地にたくさん触れてるってことだ。そうすっと手の温度で生地が疲れちゃうんだ。いかに生地に手を触れないかが大事なの。で、普通は麺を打ったらすぐゆでる。なんでだかわかるか?」
「忙しい世の中だから?」
「そういう話をしてるんじゃねえ!普通の麺はすぐゆでないと切れやすいからだ。でも俺の麺は時間をおいても切れない。だから5時間ねかせてからゆでる。そうすっと食感が良くなる。しっとりして、モチモチ感とツルツル感が出るんだよ。逆に、打ってからすぐゆでると硬くなるんだ。それを麺のコシだと勘違いしている人が多い。硬さばかりを売りにしてる店も多いよな。でも俺の麺はしなやかさ、つまり口当たりのよさとモチモチ感、それにキシッとしたコシの強さが共存してるんだよ」
確かに、その通りだ。先日食べたうどんが鮮明に脳裏によみがえってきた。
「特殊技術なんだよ。しかも粉が違う。北海道産とか岩手産とかな、5種類の地粉を2週間ごとに切り替えるんだ。粉ごとに打ち方も違う。毎週うどんを食べる、って人は少ないだろ。せいぜい2週間に一度だ。なら、2週間ごとに粉を変えれば、毎回違ううどんが味わえるだろ」
うーむ、すごい。元スーパー社長の経営感覚がここにも生きている。
「地粉には薄皮がついてるんだ。だから香りと甘みが強いんだよ」
「確かに、つけ汁につけずに麺だけ食べてもうまかったです」
「だろ。普通の店はオーストラリア産の粉を使う。船が赤道を通るだろ。船内が高温になるんだ。劣化しやすいんだよ。薄皮がついていると虫もわきやすいから、薄皮もとる。だから真っ白なうどんになって、香りも旨味も消える。そのうえ殺虫剤をかけるから、体にもよくねえよな。そういうのはお客さんに薦められねえよ」
「でも地粉だと原価はだいぶ高いんですよね?」
「そうだよ。俺のうどんはこの金額じゃ普通は食えねえよ。だけど儲けよう儲けようってやってたら、必ず金って逃げていくんだよ。お客さんに素直にね、喜んでもらおうって、この気持ちが大事なの」
何時間もかけて山の水を汲みにいったときのことが思い出された。
「そうやって徹底的にちゃんとやってるから、駅から離れたこの場所でも、昼だけで平日は200食、土日だと250食も出るんだ」
「駕籠休み」では一人前の麺が400gだ。ゆでる前は250gらしい。ということは、平日でも200食で50㎏。井島さんは店の営業も先頭に立ち、その後50㎏もの生地を仕込んでねかせ、麺の状態にしてさらに5時間以上ねかすために、夜中から麺を打つ。作業が終わったのは朝の5時前だった。いやはや、お疲れ様でした。
「まだ終わってねえよ。市場が開く時間だ。おい、これから市場にいくぞ」
「へいっ、社長」と僕は野太鼓のように返事しながら、心の中で突っ込んでいたのだった。
アンタ、いつ寝てるんだよ!
――つづく
文:石田ゆうすけ 写真:阪本勇