毎日毎日50種類以上のパンとケーキが店先に並ぶ「好味屋」に、ごくまれに登場する幻のケーキがある。その名も“インディアンプリン”。予約しないと手に入らない。予約しても年内にお目にかかることは不可能に近い。それは50年以上前から、特別な副産物である。
普通の店のスペシャルなケーキ「インディアンプリン」は、約100人が予約を待っている。いまから予約をしても、順番が回ってくまでに1年を要するらしい。私はうなだれた。
たくさんのスポンジ生地を型に詰め、たまごと牛乳を流し込み、蒸し焼きにすること3時間。そして冷やす。「好味屋」らしいシンプルな調理法と食材なのに、たまにしかつくることができない。でも、280円。やっぱり、安い。待ってるファンも多いんだし、レギュラーメニューにすればいいのに。
「切れ端のスポンジ生地を集めてつくるから、たまにしか出来ないんだ」
「好味屋」で洋菓子が飛ぶように売れていた時代。ケーキづくりで残ったスポンジ生地をかき集め、インディアンプリンをこしらえていた。パンが中心となったいま、スポンジ生地の切れ端は大量には出ない。だから、たまにしかつくることができない。
しばらく、つくっていない時期もあった。だけど、またあのスペシャルが食べたいと、常連さんからの声を受け、復活した。大阪に居を移した昔のご贔屓筋は、インディアンプリン復活の噂を聞きつけ、新幹線に乗ってやって来たという。それほどまでに求められるなら、じゃあ、インディアンプリン用にスポンジ生地を焼いたらどうかな。
「そしたら、280円で提供できなくなってしまう」
店主の藤村裕二さんは、悩ましげな顔でこちらを見つめてきた。
今年の2月、東京に大雪警報が発表された日。藤村さんから「インディアンプリンをつくっているよ」と連絡があった。テレビでは、外出は控えるようアナウンスしている。いや、行こう。私は自転車に乗り、店に向かった。
いまにも空から雪が落ちてきそうだというのに、「好味屋」からはいつもと変わらず焼きたてのパンの匂いがした。
店内に入り、奥の厨房を覗く。今日はいっそう寒い。パン職人の佐藤和男さんは忙しそうに、中野にある都立高校に持っていくパンを用意している。パン釜が開いた瞬間、湯上がりのような小麦の甘い蒸気が厨房に広がった。
藤村さんが「本当に来たのか」とニヤニヤしながら、冷蔵庫から大きなステンレスパットを取り出した。これがインディアンプリンの生地かぁ。48等分に切り分け、生クリームといちごでデコレーションをする。季節によって、果物は変わる。
「いちご、一会だね」
藤村さんは、真面目な顔で言った。
蒸し焼きするから、プリン。でも、なんでインディアン?
「なんでだろうね」
藤村さんが「好味屋」で働き始めた49年前から、当たり前のようにインディアンプリンはあった。
名前の由来も名付け親もわからない。一説には、ココアや珈琲などのスポンジが混ざり合う色模様が、インディアンのようだからとか、そんなはずはないとか。いまとなっては真相不明だが、70年も前からある店だ。その頃に誕生したものなら、名付け親さんも生きていたら、もう100歳近い。
差し出しされたインディアンプリンのひと切れに、ゆっくりフォークを入れる。ねっとりと濃厚な口どけに、むっちり濃縮された味わい。
「テリーヌみたい」
私は思わず呟いた。テリーヌはフランス料理のスペシャリテだしね。インディアンプリンは、「好味屋」にとってのテリーヌなんだ。
「テリーヌは、フランスの家庭料理だったんだよ」
洋菓子好きの藤村さんが言った。スペシャルなイメージが強いテリーヌも、元々は肉や野菜など余った具材を集めてつくる家庭の保存食だった。残った普通の食材に手間を加えることで、生まれたスペシャリテ。
「好味屋」のインディアンプリンも、余ったスポンジ生地と普通のたまごと牛乳でつくられた、スペシャルだ。やっぱり、「好味屋」のテリーヌだよ。
「冷凍保存も出来るし、そうかもしれないね」
藤村さんは笑った。
久しぶりにつくったインディアンプリンが厨房に並ぶ。多くの人が、いまかいまかと待っている。藤村さんは、予約リストの上の方から電話をかけ始めた。
――つづく。
文:朝野小夏 写真:金子山