「好味屋」のパンが買えるのは、店先だけじゃない。7つの都立高校では、昼休みになると即席の「好味屋」が登場する。その中の1校でパンを売るお母さん=藤村京子さんを追った。一朝一夕では真似のできない華麗なるパン売りテクニックにびっくり。
2019年5月31日。「好味屋」のお母さんから「高校の体育祭でパンを売るんだけど、来る??」と、連絡をもらった。
お母さんと呼ぶのはなんだか馴れ馴れしいけれど、私は「好味屋」の藤村京子さんのことを、勝手にそう呼んでいる。
誘われた先は、東京都立武蔵丘高等学校。待ち合わせは、11時20分に「好味屋」の前。約束の5分前に到着すると、お母さんは、準備万端。エンジンを吹かし、運転席に座っていた。
「雲行きが怪しいから、早く出るわよ」
まるで漁に出る前の漁師のように険しい顔で、空を見つめている。私は慌てて、助手席に乗り込んだ。
車は阿佐ケ谷駅を通り抜け、中杉通りのけやきをスイスイ追い抜き、やがて踏切り待ちで停まった。新緑の季節ですね。運転席のお母さんに話しかけようとした。が、「今日、踏切ちょっと長いわね」。どうやら、西武新宿線の踏切に、イライラしているご様子。
天気予報は、曇り。でも、この空模様。もしかしたら雨が降るかもしれない。小学校の運動会と違い、少しでも雨が降ったら、販売ターゲットである父兄たちは、そそくさと帰ってしまうらしい。「お昼前が、売りの勝負かもしれないわね」と、ハンドルを握りしめ、お母さんはがクールにつぶやく。
正門をくぐり、車を止める。校門横のソメイヨシノがさわさわ揺れ、校庭から黄色く青い歓声が聞こえる。のんびりと助手席でひと息ついて、お茶を飲んでいると、後ろから、ガタン、ゴトンと荒々しい工事現場のような音。お母さんが木のテーブルを組み立て、パンのトレーを手際よく並べ始めていた。
校庭に、お昼休憩のアナウンスが響く。天気はなんとか。学生たちが校庭から教室へ移動すると同時に、父兄の群れが、こちらに一直線に向かってくる。なんだ、なんだ、新しい競技か?一瞬で、トレーの前に人だかりができた。しかし、お母さんはひるまない。
「はい、いらっしゃい。生徒さんに大好評の『好味屋』のパンですよ!うちはすべて、手づくり!クリームパンのカスタード、とろけるわよ。はい、あなたのお会計、260円!」
パンのチャームポイントをアピールするお母さん。真剣な眼差しでトレーに並ぶパンを物色する父兄たち。この熱気。まるで、市場の競りのようだ。買うものが決まった人は、パンを片手に掲げ、即座にお母さんがバシッと値付けする。あちらこちらで繰り広げられる競り。しかも、合間合間にdancyuの宣伝もしている。おかん、すごいや。私は、黙々と手伝った。いや、どちらかと言えば、立ち尽くしているだけだった。そして、5分後。200個のパンが、見事にトレーから消え去った。
次の金曜、6月7日。今度は教室の一角で、パンを並べて学生がやって来るのを待つ。お母さんは、毎日、昼休みに高校でパンを販売しているのだ。微力ながら、私も何か手伝いができたらと、一番人気のベーコンフロマージュは170円。懐かしのクリーム揚げパンは130円。バターコッペは100円。心の中で、復唱する。よし、大丈夫だ。
お昼のチャイムが鳴る。入口から一斉に高校生がトレーに向かってやって来る。土壇場で丸暗記したすべてが吹っ飛んだ。
放課後の部活動が楽しみだと言った女の子は、甘いパンをふたつ。「早弁しちゃったから、お昼のおやつにするの」と。うんうん、若いうちは太らないから、いっぱい食べとき。全身ではしゃぐ小柄な男の子は、「どれにしようか選べないよ?、破産しちゃう」と身悶え。うんうん、甘いのとしょっぱいのバランス良く選んでね。
お母さんは、トレーに群がる高校生ひとりひとりを完璧に掌握していた。誰ひとりの動きも逃していない。すごい動体視力。ひよっとして、目がみっつあるとか?
「万引き犯も、逃しまへんで」
ニヤリと笑う目が、マジだ。そして、10分後。140個のパンは完売となった。
「好味屋」が高校でパンを販売することになったきっかけは、杉並区にある都立高校のとある職員。「好味屋」のファンである彼が、学生たちにもこの味を楽しませたいと、オファーをした。口コミはあっという間に広まり、いまでは7校の都立高校でパンを販売している。「好味屋」は木曜が定休日だけれど、高校での販売はある。店主の藤村裕二さんは、もうヘロヘロ。そりゃ、営業中の店先でウトウトしちゃうわけだ。
おしゃれなパンが山ほど売られてる東京で。高校生たちが、「好味屋」の普通のパンをこぞって買っている。その普通ってところが、やっぱりいいんだな。シンプルな材料で、手間暇かけて、きちんとつくる。真摯につくられた普通の「好味屋」のパンをちゃんとおいしいって思える、高校生に拍手。「好味屋」の未来は、まだまだ明るい。
「好味屋」は、今年で72年。ここからが頑張りどころよ。お母さんは言った。
――つづく。
文:朝野小夏 写真:金子山