南阿佐ケ谷でパンとケーキの店を営んで30年余。変わらぬ手仕事で、パンとケーキをつくってきた「好味屋」。訪れた常連客に、この店の魅力を訊いてみた。返ってきた答えは、意外なものだった。
「『好味屋』は70年以上も前からある店でね。一時期は暖簾分けした店舗が15店もあって、新宿紀伊国屋の地下や吉祥寺駅前にもあったんだ」
店主の藤村裕二さんは、陳列棚に並んだパンを愛おしそうに手入れしながら、昔に思いを馳せるように話し始めた。
「好味屋」は、もともと乾物屋だった。先代社長のアイデアで、洋菓子とパンの店に生まれ変わり、規模を拡大したけれど、いまはこの南阿佐ケ谷の店舗のみになってしまった。
藤村さんは、この場所で働き始めて30年になる。お客さんのほとんどが顔馴染みだ。たけど、藤村さんよりも「好味屋」と付き合いが長い、ずっと昔からのご贔屓筋もいるらしい。
タクシーも見かけない住宅地なのに、私が藤村さんと話をしていると、しきりにお客さんが入ってくる。常連ゆえ、お目当の品は明確なのか。トングを持つ手に迷いがない。
それにしても、藤村さんの朝は早い。
「毎日、生地を捏ねるところから始めるからね。一緒にパンをつくっている佐藤くんなんて、真夜中の2時に起きてる。昔からそうだから、当然なんだ。味が変わると、ファンに“『好味屋』の味じゃない”って怒られちゃうからね。つくり方は、変えたくない。変わらないことは、すごく大切だから」
つくり置きせず、開店時間の朝7時に間に合わせるには、当たり前だけど朝になる前につくり始めなければならない。空の真っ暗が大きい時間に。そうか!だから、天井一面を青空にしたんだ。暗闇が深い時間に起きて、生地を捏ねる。しんどく孤独な作業じゃないかと、私は勝手に想像する。でもだからこそ「好味屋」の味になる。真夜中の真っ暗に負けそうなとき、天井の青空を眺め自分を奮い立たせてきたんだろうな。
前の日に仕込みをして、朝は焼くところから始めたり、生地を仕入れたっていい。でも、もし変えたら「好味屋」の味は終わってしまう。藤村さんは、そう信じて朝に向かったパンをつくっているという。
「これは絶対に変えちゃいけないスタイルなんだ」
藤村さんは強調する。その意志の強さに私はちょっとうるっとした。営業中に、ちょっとくらい寝ていたっていいじゃないか、とも思った。
藤村さんと話していると、ウズウズとこちらの会話に入りたそうに、おばさまが近づいてきた。女学生の時代からのご贔屓筋だという。
「え、当時の『好味屋』?いまと同じ、普通よ。ぜんぜん凝ってない、普通の味。でも、それがいいの。だって、普通でおいしいって、いちばんじゃない。そういうの、最近少なくなっちゃったわね」
普通の味をこよなく愛するおばさまは、嬉しそうに買い物袋にクリームパンを入れ、帰って行った。普通って言われて、藤村さん、怒っちゃったかな?
「うちのパンは普通だな。どれも特別な素材は使ってない。でも手間は惜しまないよ。だって手間賃はタダだろ。クリームパンも、バニラエッセンスで香り付けをしたり、高級素材を使ったりはしていない。値段が高くなってしまうからさ。普通をきちんとやるのが大切なんだ」
納得したように頷く藤村さんにちょっとおねだりして、厨房でカスタードクリームづくりの過程を見せてもらったが、鮮度が良い卵黄と牛乳を小麦に溶かし、裏漉しして、じっくり炊き込むだけ。教科書通りのスタンダードなつくり方だ。そこには、マジックも秘密もない。それでも、味見させてもらうと大釜で炊かれたカスタードクリームは、黄色が濃く舌の上で熱くとろりとしなだれ、うっとりとする味わいだった。
「だろ、普通だけどおいしいんだよ」
藤村さんが笑っている。
手間暇を惜しまないって、よく言うけど、こういうことなんだ。
普通。この言葉が特別に思えた。
――つづく。
文:朝野小夏 写真:金子山