鮨種の木札が多彩な貝でにぎわう春。ぷっくりと肥えた食べ時の季節である。「貝」とひと言でいってもその種類は多く、奥は深い。前編では、おいしい赤貝を提供するための仕入れと鮨屋ならではの仕事を追う。
鮨屋がどれだけ良質の食材を扱っているか――。その指標となるのは「貝」ではないか。
食材に施す一手間の仕事にこそ心血をそそぐ江戸前の鮨屋にあって、煮蛤、煮あわび以外の貝は生で提供する鮨種だ。
だからこそ、貝は鮮度が勝負。そうでないと噛んだ時の弾力、歯ざわり、香り、甘さを堪能することはできない。「この店はいい貝を揃えているね」。そう客にいわしめる鮨屋は、何を食べても旨いに決まっている。市場の仲買人との信頼関係がなければ、それは実現できない。
数ある貝の中でも赤貝はもっとも人気のある種だ。
「㐂寿司」の四代目・油井一浩さんは、赤貝の仕入れには少なくとも2軒の仲卸をまわる。
かつては1軒で良質な赤貝だけを「選る」ことができたが、赤貝そのものの漁獲量が少なく、市場への入荷量も減少していて、いまはそうはいかない。としたら足で稼ぐしかない。豊洲に市場が移転して、およそ半年。ようやく馴染みの店の場所を体が覚えてきたと笑う。
「毎日、通っていれば、どの店がどんな品物を持っているかわかるものです。だから、違う店で買うといっても、殻付きの『本玉(ほんだま)』はここ。殻を剥いた『剥き玉』はここと買う店は決まっています。品質重視でよいものだけを持っている店。逆に数を捌いているので、いいものだけを取り置いてくれる店。そうした店を使い分けています」
赤貝はその名前の通り、剥いているそばから真っ赤な汁があふれる。剥き子と呼ばれ、赤貝を専門に剥く仲買人の前掛けは真っ赤だ。
新鮮な赤貝はまさに磯の香りがする。赤貝は何といってもこの香りと歯ざわりが身上だ。口が開いた貝は鮮度が悪く、泥臭い匂いのものが混じっているので注意する。生で供するだけに、貝は仕入れの時点で徹底的に吟味する必要がある。
産地としては宮城県閖上(ゆりあげ)が最上といわれているが、「㐂寿司」では必ずしも閖上にはこだわらない。季節によって大分、福岡、愛媛、山口のものを使い分ける。
ある仲卸の店主が貝を剥く手を止めて、こんなことを教えてくれた。
「赤貝が入ると、鮨の盛り合わせだって、パッと豪華に見えるでしょ。昔は『上にぎり』になると赤貝が入ったもの。だから、それを毎日、買ってくれるということは、この店はいいお客さんがついているな。儲かっているな、ってそう思ったもんですよ」
店では剥いた貝は昼の決まりものに。殻付きは夜のおまかせやお好みと、同じ赤貝でも使い分ける。
殻付きの赤貝は、注文が入ると貝割り専用のヘラを、貝の蝶番(ちょうつがい)から差し込み、殻と身の間にある柱を殻の内側をヘラで擦るようにして外す。貝殻の状態からは想像できないような華やかな色の身が飛び出すと、カウンターから小さな歓声があがる。そして、プンッとあの特有の香気が鼻をくすぐる。
貝殻から取り出した身は、包丁の刃を使って掃除をほどこす。身の周囲にくっついているヒモとワタを外すのだ。そして、蛤などと同じく、剥き身の状態の貝に水平に包丁をいれ、内臓を取り出して水洗いする。この状態のものを、パチンとまな板に叩きつけると、グンッと身が反り返る。
赤貝が好きな通な人がとくに好むのが「ヒモ」の部分だ。
「赤貝は胡瓜と相性がとってもいいんです。うちでも一人前の決まりものの巻物に、ヒモの部分を胡瓜と巻いた『ヒモキュー』を入れることがあります。お好みで追加の注文も入りますから、これを楽しみにされている人も多いですね。あとは、このヒモだけを握りにして召し上がる方もおられます。コリコリとした食感がクセになるんです」
――つづく。
文:中原一歩 写真:岡本寿