「㐂寿司」の365日。
「㐂寿司」で春の貝づくしの後編。

「㐂寿司」で春の貝づくしの後編。

鮨種の木札が多彩な貝でにぎわう春。ぷっくりと肥えた食べ時の季節である。「貝」とひと言でいってもその種類は多く、奥は深い。後編では赤貝以外の魅惑のおいしさとその仕事に迫る。

みる貝、平貝、はしらにとり貝。木札が貝でにぎわう。

赤貝に限らず、春一番が吹き、水が温み、桜が満開になるとザクザクと貝が湧くように採れる。貝の旬は「真冬」という向きもあるが、初夏の産卵を控え、旨味をたくわえ、ぷっくりと肥えたという点では、春が最盛期ということになるだろう。

鮨種の木札
鮨種の木札がとりどりの貝でにぎやかに。さぁて、どれをいただこうか。うれしい迷いである。

たとえば、シコシコとした食感がクセになる「みる貝」。貝の中でも大きい部類になるみる貝だが、食べるのは貝の身そのものではなく、水管と呼ばれる部分だけだ。みる貝はその大きな水管の部分に、大量の水を吸い込んでいる。

水槽からあげると、まるで水鉄砲のようにピューッと勢いよく水を噴く。仕入れの時、その水をしっかり吐かせないと、量り売りなので大損をするのだそうだ。みる貝は、握りと刺身で使うが、貝の中でも最も潮の香りが濃く、好き嫌いが分かれるという。だから「㐂寿司」では、握る際にはゆずなどの柑橘をひと振りして供する。

みる貝の握り
みる貝の握り。あわびにも匹敵する高級貝、本みる貝の水管の部分を握る。

天ぷらでもおなじみなのが「小柱」だ。「あられ」と呼ぶ人もいる。

実は小柱は「バカ貝」と呼ばれる二枚貝の貝柱の剥き身だ。このバカ貝の身の付いたものは「青柳」と呼ばれる。かつて広大な干潟を有した東京湾では、バカ貝が“バカのように採れた”という。東京湾に面した千葉・富津がその集積地で、その場所の地名の「青柳」から、その名が広まったと言われる。

青柳の殻付き
これが青柳の殻付きのもの。手前の色の濃い部分が「青柳」。
青柳の殻付き
蝶番の部分を押すと、ころんと「はしら」が取れた。1個の貝から2個の小柱が取れる。

鮨で使うのは「舌切り」と呼ばれ、内臓を取り除いた身の部分。いわゆる青柳。オレンジ色の貝脚の部分が印象的で珍重されるが、「㐂寿司」ではあまり仕入れることはないそうだ。

理由は、独特の香りが強く、それ以外の種の邪魔になるから。「大星」と呼ばれる粒の大きな柱が手に入った時だけ、海苔で巻いて軍艦巻きにする。

はしらの軍艦
はしらの軍艦。大きな粒のものはなかなか手に入らなくなっており、希少な鮨種である。

握った時に船の帆のような格好になるのが「とり貝」。これも青柳と同じく、二枚貝の身から伸びる黒味がかった薄紫色の貝脚の部分で、その姿が鳥のくちばしに似ていることから名付けられた。

とり貝は通常、剥いて湯引きしたものが、半透明のプラスチック製の箱に並んだ状態で売られている。これを「タテ」と呼ぶ。しかし、「㐂寿司」ではとり貝は生の状態で購入し、店でその剥き身を湯通しする。その加減がとり貝の口に入れた時の食感を決定付けるからだ。湯通しといっても一瞬で、仕上がりは半生の状態。少し熱を加えることで、貝の甘味はグンと増す。「㐂寿司」四代目の油井一浩さんは愛知(伊勢湾)の品物を好んで使う。身が厚くて、艶のあるものがいいと言う。

握る直前に甘酢にくぐらせる
握る直前に甘酢にくぐらせ、特有のクセを取る。
とり貝の黒い部分
とり貝の黒い部分は触れるとすぐにはがれてしまう。美しい“黒”を残したまま握るのも鮨屋の技だ。
とり貝の握り
4月中旬のとり貝はまだ小さめ。これから愛知県産や京都産のものや、肉付きのよいものが出回るようになる。

貝ならではのつまみ、磯辺も美味なり。

このほかにも「帆立貝」や「たいら貝」がネタケースに並ぶ。これらは握りでもいいが、醤油を塗って、軽く炙り、海苔でくるりと巻いて「磯辺焼き」にする。醤油の焦げた香りと、火を入れることで甘味の増した貝。これが日本酒にはことのほか合う。

欠かせないのが七味唐辛子。かつて「㐂寿司」が創業した両国橋のたもとの柳橋は、七味唐辛子の発祥地である「薬研堀」が近くにあった。

ほたての握り
ほたての握り。通年食べられる鮨種で、しっとりとした身質と噛むほどに広がる甘さが魅力。
平貝の握り
平貝は海苔をくるんとひと巻。食べやすさもあるが、かすかな海苔の風味もいい具合。
平貝の磯辺焼き
七味唐辛子を振って炙った平貝の磯辺焼き。大至急、お燗酒の注文を。

貝は不思議なもので、年によってむやみやたらに採れたり、そうでなかったり、漁獲にもブレがある。去年はとり貝の当たり年だったので、今年はあまり期待できないだろうなど、貝を扱う仲卸の軒先では貝談義に花が咲く。

桜の花が開花し、春本番を迎えると、今度は桜鯛、春子が旬を迎える。


――つづく。

店舗情報店舗情報

㐂寿司
  • 【住所】東京都中央区日本橋人形町2-7-13
  • 【電話番号】03-3666-1682
  • 【営業時間】11:45〜14:30、17:00〜21:30
  • 【定休日】日曜、祝日
  • 【アクセス】東京メトロ「人形町駅」より2分

文:中原一歩 写真:岡本寿

中原 一歩

中原 一歩 (ノンフィクション作家)

1977年、佐賀生まれ。地方の鮨屋をめぐる旅鮨がライフワーク。著書に『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』(講談社)、『私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝』(文藝春秋)など。現在、追いかけているテーマは「鮪」。鮪漁業のメッカ“津軽海峡”で漁船に乗って取材を続けている。豊洲市場には毎週のように通う。いつか遠洋漁業の鮪船に乗り、大西洋に繰り出すことが夢。