鮨種の木札が多彩な貝でにぎわう春。ぷっくりと肥えた食べ時の季節である。「貝」とひと言でいってもその種類は多く、奥は深い。後編では赤貝以外の魅惑のおいしさとその仕事に迫る。
赤貝に限らず、春一番が吹き、水が温み、桜が満開になるとザクザクと貝が湧くように採れる。貝の旬は「真冬」という向きもあるが、初夏の産卵を控え、旨味をたくわえ、ぷっくりと肥えたという点では、春が最盛期ということになるだろう。
たとえば、シコシコとした食感がクセになる「みる貝」。貝の中でも大きい部類になるみる貝だが、食べるのは貝の身そのものではなく、水管と呼ばれる部分だけだ。みる貝はその大きな水管の部分に、大量の水を吸い込んでいる。
水槽からあげると、まるで水鉄砲のようにピューッと勢いよく水を噴く。仕入れの時、その水をしっかり吐かせないと、量り売りなので大損をするのだそうだ。みる貝は、握りと刺身で使うが、貝の中でも最も潮の香りが濃く、好き嫌いが分かれるという。だから「㐂寿司」では、握る際にはゆずなどの柑橘をひと振りして供する。
天ぷらでもおなじみなのが「小柱」だ。「あられ」と呼ぶ人もいる。
実は小柱は「バカ貝」と呼ばれる二枚貝の貝柱の剥き身だ。このバカ貝の身の付いたものは「青柳」と呼ばれる。かつて広大な干潟を有した東京湾では、バカ貝が“バカのように採れた”という。東京湾に面した千葉・富津がその集積地で、その場所の地名の「青柳」から、その名が広まったと言われる。
鮨で使うのは「舌切り」と呼ばれ、内臓を取り除いた身の部分。いわゆる青柳。オレンジ色の貝脚の部分が印象的で珍重されるが、「㐂寿司」ではあまり仕入れることはないそうだ。
理由は、独特の香りが強く、それ以外の種の邪魔になるから。「大星」と呼ばれる粒の大きな柱が手に入った時だけ、海苔で巻いて軍艦巻きにする。
握った時に船の帆のような格好になるのが「とり貝」。これも青柳と同じく、二枚貝の身から伸びる黒味がかった薄紫色の貝脚の部分で、その姿が鳥のくちばしに似ていることから名付けられた。
とり貝は通常、剥いて湯引きしたものが、半透明のプラスチック製の箱に並んだ状態で売られている。これを「タテ」と呼ぶ。しかし、「㐂寿司」ではとり貝は生の状態で購入し、店でその剥き身を湯通しする。その加減がとり貝の口に入れた時の食感を決定付けるからだ。湯通しといっても一瞬で、仕上がりは半生の状態。少し熱を加えることで、貝の甘味はグンと増す。「㐂寿司」四代目の油井一浩さんは愛知(伊勢湾)の品物を好んで使う。身が厚くて、艶のあるものがいいと言う。
このほかにも「帆立貝」や「たいら貝」がネタケースに並ぶ。これらは握りでもいいが、醤油を塗って、軽く炙り、海苔でくるりと巻いて「磯辺焼き」にする。醤油の焦げた香りと、火を入れることで甘味の増した貝。これが日本酒にはことのほか合う。
欠かせないのが七味唐辛子。かつて「㐂寿司」が創業した両国橋のたもとの柳橋は、七味唐辛子の発祥地である「薬研堀」が近くにあった。
貝は不思議なもので、年によってむやみやたらに採れたり、そうでなかったり、漁獲にもブレがある。去年はとり貝の当たり年だったので、今年はあまり期待できないだろうなど、貝を扱う仲卸の軒先では貝談義に花が咲く。
桜の花が開花し、春本番を迎えると、今度は桜鯛、春子が旬を迎える。
――つづく。
文:中原一歩 写真:岡本寿