東京は湯島に、バーテンダーも憧れるバーがある。その名は「EST!」。マスターの渡辺昭男さんは半世紀以上にわたって、独学でカクテルを追求してきた。マスターのカクテル論をレシピとともに解き明かす1杯目は、スコッチウイスキーの香りを味わうハイボール。あえて、グラスになみなみ注がない理由とは?
東京は湯島の小路に佇むバー「EST!」。マスターの渡辺昭男さんは、1933年生まれの85歳。現在、80歳以上になるバーテンダーの多くが日本のバー黎明期を支えてきたように、渡辺さんもまたその一人として、カクテルを追求してきた。
旧満州で11歳まで過ごした後に佐賀県唐津で育ち、高校卒業後に薬剤師を目指して上京。ところが当時全盛だった「トリスバー」でのアルバイトをきっかけに、バーの世界へと入っていく。
銀座のバーを経て、文化人も集った湯島「琥珀」へ。そして1973年、自身のバー「EST!」を開いた。
「EST!」の名付け親は「琥珀」時代の客であり、発酵と醸造に関する研究の世界的権威で「酒の博士」として知られた坂口謹一郎さんだ。ラテン語で「ここだ!」と存在することを意味する。
大通りから引っ込んだ看板ひしめく路地でこの看板を見つけると、いつも心の中でそう呟いてしまう。
現在、マスターは店には立っていない。
2016年11月に背骨を圧迫骨折し、続いて挫骨神経痛を発症。日々リハビリを続けるも、2018年5月には自転車の事故で今度は大腿骨を骨折。再び、リハビリを続ける毎日だ。
幸いにもマスターの二人の息子はバーテンダー。いま「EST!」には次男の宗憲さんが立ち、往年のレシピを守っている。
「EST!」のカクテルは、アルコール度数が強くとも、なぜかまあるく柔らかい。グラスいっぱいに注がずに仕上げるスタイルも、個性的だ。
まずは、爽やかに喉を潤すハイボールについて、物語を聴いていこう。
「グラスはうすはり。12oz(約360ml)が入る大きめのタンブラーを使っています。なみなみと注がず、せいぜい7分目ぐらいまで。薄く大きめのグラスに“余白”をもたせて完成させるのは、店を始めた46年前から決めていることです。というのは、その余白にウイスキーのよい香りが漂うんですね。開店当時は、お客様に『なんだ、これしか入ってないのか。いっぱいまで入れてくれ』なんて言われましたが、余白があることでグラスを持ち上げて傾けて口に届くまでに、“間(ま)”が生まれます。この間で鼻にすっとよい香りが入って来る。そして口を離した後には、今度はグラスを置くまでに余韻が広がる。炭酸がふっと口の中で暴れる刺激が爽快です」
――つづく。
文:沼由美子 写真:渡部健五