「日本酒を変えた」男 ~神亀・小川原良征“センム”の軌跡~
偉大なる先代から託された蔵。8代目蔵元・小川原貴夫さんが繋ぎ、拓く未来➀

偉大なる先代から託された蔵。8代目蔵元・小川原貴夫さんが繋ぎ、拓く未来➀

神亀酒造の小川原貴夫社長へ「蔵元」というタスキが渡されて7年が過ぎた。駅伝の走者が自分の区間を懸命に走り次の走者にタスキを渡すように、酒蔵を率いる蔵元の役割もまた、先代が担い守った一代の後に次世代へと渡される。
貴夫さんの場合は、2016年春、7代目蔵元であった小川原良征さん(=センム)の病気により、予想していたよりもはるかに早く蔵の引き継ぎを意識せざるをえなくなった。そこからは病身のセンムが呟くように発する数少ない言葉に耳をすませ、経営者としての仕事を学ぶ。2017年4月にセンムが逝去した後は、同月代表取締役に就任。形あるもの、ないもの両面で先代の遺したものと向き合ってきた日々は、どうようなものだっだのだろうか。

「蔵元とは、こういうものか」。22歳の若者を変えたセンムとの出会い

貴夫社長と神亀酒造との出会いは、2002(平成14)年に遡る。貴夫社長の生家は、本所吾妻橋にある「ニシザワ酒店」だ。父の西澤亨(とおる)さんが2代目として店を継いだ時の業態は、主に浅草や神田などの飲食店を取引先に持つ業務用専門店で、昭和の時代の商売は順調だったという。だが、1998(平成10)年の酒類販売の自由化以降は、酒販業界の安売り競争に巻き込まれるような状況にあった。店の経営に危機感を感じていた亨さんと貴夫さんは、今後の道を探る中で神亀酒造の存在を知り、2人で蔵を訪問することに。かねてから日本酒業界全体の向上を願っていたセンムは、同業の蔵元たちに純米酒の醸造技術を伝えるだけでなく、日本酒を扱う酒販店、飲食店の人たちからのさまざまな相談事にも応じ続けていた。貴夫さん親子もそんな相談者の中の一組だった。

初対面の2人に対して、センムは長時間親切に対応し、純米酒の可能性について話すとともにニシザワ酒店の現状についてもじっくりと耳を傾けた。貴夫さんは「本質的な上に、人情肌の人だな。普通の人とは空気感が違う」と感じたという。酒屋の3代目である貴夫さんは、「自分の人生は、酒屋だ」と思っていた22歳の若者だった。しかし、親子で商いの仕方を模索するさなかに得たセンムとの出会いは、店のその後も貴夫さんの人生も決定的に変えることになる。「この人の胎の据わり方は、すごい。蔵元って、こういうものか」。これがセンムとの対話を終えた貴夫さんの第一印象だ。

神亀酒造訪問を機に、父の亨さんは、店で扱う酒をすべて純米酒のみに切り替えるという思い切った方向転換を決め、貴夫さんもそれに同意した。二人の覚悟を知ったセンムは、蔵元としてその気持ちに応えようとし、初めての取引であるにもかかわらず、蔵の酒のすべてのアイテムを揃えて出荷してくれたという。

酒を注ぐ
神亀酒造の事務所にはテイスティング用グラスが置かれ、客人には、口頭の説明だけでなく実際に味わいを見てもらう。先代の頃からの慣習だ。

神亀酒造と共に歩む酒販店となったことで、貴夫さんは酒造り以前の田植え、稲刈りにも参加し、根本からの酒造りの勉強が始まった。当時のセンムは、実質的には蔵の経営者であったにもかかわらず、口癖は「オレはなんにもセンム(=専務)」。周囲からも、社長ではなく「センム」と呼ばれ続けていた。貴夫さんも「センム」と呼んでそのあとを追い、「一緒に見にこいよ」と誘われて行った酒米の生産地では、生米を齧りながら炎天下の畦道を歩き廻るセンムの姿を目にした。

「センムの責任感というのは、自分の蔵に対してだけではなかったですね。良い米を作ってくれる農家さんたちのことも考えていたし、良い米がほかの蔵の人たちにも行きわたるような仕組みも考えていた。業界全体の酒を良いものにしなければという思いを持ち続けていました」。

徳利と盃
貴夫社長が考案した神亀酒造オリジナルの徳利と盃。徳利には五色の亀が並んでいる。「こういうグッズを考えるのが好きなんですよ」。
日本酒の瓶
「神亀」銘柄の伝統的な書体は残しつつ、酒質の区別がしやすいように酒米ごとに色分けされた新ラベル。これも貴夫社長が考案。

2011年、貴夫さんは小川原家の長女・佳子(よしこ)さんと結婚。2012年神亀酒造に入社、2013年からは、杜氏・蔵人と共にフルで酒造りの現場に入り、次期蔵元としての精進が続く。
「酒造りって、こんなにきついのかとビックリしました。神亀酒造は、午前3時から動きだすような蔵ですし、蔵人の動き方にしても一人一人が作業を全部理解して、それをうまく連携して動くというのは軍隊並み。仕込み中は走っているし、みんなが右へならえで同じ動きをしていました」。

酒造りでは“一麹、二酛(酒母)、三造り”が奥義とされるように、神亀酒造でも麹造りが酒造りの要とされている。しかも全量の麹造りに一番小さな道具である麹蓋が用いられている。大吟醸の麹造りの際に麹蓋を用いる蔵は多いが、全量に麹蓋が用いられている蔵は全国でも稀有な存在だ。道具が小さければ、麹の発酵熱や湿気を分散させるための積み換え作業の回数も増える。酒造りの厳しさは予想以上だった。

「最初の頃は実家の酒屋の仕事もまだ抱えていましたから、朝、蔵の仕事をしてから酒屋に移動、蓮田と本所吾妻橋の往復を続けているとヘトヘトでした。それを嘆いたらセンムからは『でも、おまえ、寝る時間はあるだろ』と言われました。『寝る時間がなくなったら泣きごとを言え』と(笑)」。

酒造りの現場
貴夫社長は族蔵の経営だけでなく、酒造りの現場にも参加(写真右から2人目)。入社以来ずっと営業、事務方、造りの現場と一人何役もの仕事をこなしてきた。
倉庫
神亀酒造は、春出荷の生酒は1割のみ。ほかの酒は、火入れの処理をほどこして酒質を安定させる。熟成酒の在庫管理も蔵元としての大きな仕事のひとつ。

センムが見守る中での酒造りは、5造りを体験した。全員が酒造技術者1級の資格を持つ酒造りのメンバーは、杜氏を含め8人(当時)。酒造技術者1級は、杜氏職を務めることのできる能力を認められた資格だ。

センムは、自分の蔵だけでなく、よその蔵に移っても杜氏としてきちんとした純米酒を醸せる人材を育てるために、別の蔵の跡継ぎ候補を預かって教育することもあり、蔵人全員に酒造技術者の資格を取得させていた。
「だけど、うちの蔵は誰もよその蔵には移っていかずに、ずっとここにいてくれているんですよね。(蔵のある)蓮田に家を建てたりして(笑)」。

卓上燗つけ器
神亀酒造監修で販売された卓上燗つけ器「かんまかせ」。軽量で持ち運びしやすく、旅先でも使える手軽さがうけて、大ヒット商品に。
グラスの熟成酒をろうそくの炎で温める
熟成酒は、お燗をつけることで味わいが増す。それを実証するため、グラスの熟成酒をろうそくの炎で温める貴夫社長。

センムの闘病期間と重なった2016年の酒造りは、入退院を繰り返すセンムの不在を挟みつつ、進行していった。「俺の言うとおりに造ってくれ」。そのセンムの言葉を真摯に受けとった太田杜氏と貴夫さんは、造った酒のほぼすべてをセンムの元に届けた。治療中の身であっても、利き酒を続けていたセンムは、酒の状態を的確に当てていく。酒の出来に納得したセンムは「俺の言ったとおりにしたから(笑)」と冗談半分に呟きながら満足そうだった。

2017年4月19日、酒造りをすべて終えた皆造の日。醸造年度最後の酒を携えた太田杜氏がセンムの自宅に挨拶へと向かった。今年も無事に酒造りを終えることができた。その報告を受けたセンムは、「お疲れさん。ありがとな」と太田杜氏をねぎらった。センムが昏睡睡状態に入ったのは、同日の午後。その様子を見ていた貴夫さんは「蔵元、というものの凄さを見せられた」と感じたという。

「これはもう、天命というか……やっぱり、蔵元なんだなと思いましたね。本当に最後の最後まで蔵のことをちゃんと見て、自分の体調も全部、皆造に合わせて持っていったのかなと。蔵の仕事にはいろんなことがありますけど、センムのあの最後の姿が自分に対しての最後の教えなのかなと。蔵元として、そこまでやれよということだったと思うんです」。

昏睡状態に入ったセンムの意識が戻ることはなかったが、しかし亡くなる直前には、澄んだ目を見開き、穏やかな表情を周囲に見せた。亨さんが死に水をとり、センムは永眠。4月23日の午前2時過ぎのことだった。

貴夫社長、杜氏の太田茂典さん
センム亡きあとも常に真摯な仕事を続け、蔵の味を守ってきた杜氏の太田茂典さんと。

文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子

藤田 千恵子

藤田 千恵子 (ライター)

ふじた・ちえこ 群馬県生まれ。日本酒、発酵食品・調味料、着物の世界を取材執筆するライター。dancyu日本酒特集にも寄稿多数。1980年代中盤に日本酒の業界紙でアルバイトしていたことがきっかけで神亀酒造・小川原良征氏と出会い、以後三十余年の親交を続ける。小川原氏の最晩年には、氏からの依頼で病床に通い、純米酒造りへの思い、提言を聞き取り記録した。