「蔵で醸す酒のすべてを純米酒だけにする」。その決意と共に酒造りの道を歩み始めた神亀酒造の蔵元・小川原良征さん(=センム)が願いを叶え、戦後初の全量純米蔵となるまでの歳月は平坦ではなかった。 そのデコボコ道を共に走ってきたのは、妻の美和子さん。仕事の場でも家庭でも。 41年間にわたりセンムの心の支えであった人に、出会いから永別までを振り返っていただいた。
小川原センムと美和子さんの出会いは、1976年の1月だ。酒蔵の跡取り息子であれば、1月は寒仕込みでもっとも忙しい時期のはずなのだが、酒造りについての意見が蔵元の父とも杜氏とも折り合わず、居心地の悪さを感じていたセンムは、息抜きのつもりで長野の五竜遠見スキー場へ。ところがスキー板を足にぶつけて裂傷、というアクシデントに見舞われた。その時にたまたま近くにいた親切な若い女性が、兵庫から来て同じ山小屋に宿泊していた美和子さんだった。
怪我で動けなくなったセンムに診療所まで付き添ったことが縁で親しくなり、9ヶ月後に2人は結婚。出会いの時からセンムの窮地に立ち会っていたとは、その後の運命を暗示していたかのようだが、神ならぬ身の美和子さんにはそんな予感は皆無。兵庫県芦屋市から、夫となる人以外には誰一人知り合いのいない埼玉県蓮田まで嫁いできた。嫁入り道具は、タンスや着物だけではなく、「車がないと、どうにもならない土地」とセンムから聞かされて神戸で取得しておいた車の運転免許証だった。
美和子さんの生家は芦屋の写真機材商で、創業者の祖父は、日本写真協会賞など受賞歴多数の写真家・ハナヤ勘兵衛さん(1903~1991年)だ。勘兵衛さんは孫娘の選んだ相手を気にいり、センムの純米酒造りを大いに応援した。著名な写真家であった勘兵衛さんには財界の知人も多く、上京時、知人たちと会う時にはセンムのことも同席させ、「神亀酒造の小川原」と紹介して歩いたという。
「祖父は『どんなにえらい地位の人だって、同じ人間同士だ。誰と会う時でも自然体で堂々としていなさい』と常々話していました。その影響をセンムも大きく受けたと思います」。
小川原さんもまた勘兵衛さんを尊敬し、その作品を蔵内にも自宅にも大切に飾った。その名も「ハナヤ勘兵衛」という屋号の店は、JRと阪神の芦屋駅、阪急芦屋川駅と3つの駅が徒歩圏内という街なかに位置している。日本にフランスの本格的なパン作り技術を持ち込んだことで知られるフィリップ・ビゴさんの「ビゴの店」や洋菓子の「アンリ・シャルパンティエ」の本店にも歩いて行けるような便利でお洒落な街から嫁いできた美和子さんが驚いたのは、蓮田が「1時間に1本しか電車が来ない」「パン屋がない」「肉屋に牛肉が並んでない」という田舎だったことだけではなく、蔵の中でのセンムの立場の難しさだった。
世の中に流通している大半の日本酒がアルコール添加の日本酒(=普通酒)であった1970年代に「純米酒が日本の本来の酒」と考え、純米酒作りに賭けようとするセンムは、孤軍奮闘中。味方は、戦前の純米酒造りを知る祖母のくらさん一人だけだった。くらさんは「うちの田畑を売ってもいいから、自分の信じた道をお行き」とセンムを励まし、嫁いできた美和子さんにも優しかった。けれども現場を仕切る蔵の人たちや蔵元である父にとっては、センムは世間知らずの跡取り息子とうつっていた。「純米酒なんかを造っていたら、蔵がつぶれる」と面と向かって意見され、反発するセンムが「なんだと」と言い返し、時には取っ組み合いの喧嘩に発展するほど、酒造りを巡っては蔵内での衝突が多かった。
結婚当時の神亀酒造は、普通酒を主体に約400石を醸造する小さな蔵。取引先は、地元の酒販店が大半で、センムはそこに御用聞きや配達に出向いていた。結婚を機にさらに頑張ろうと車の荷台に酒のケースを積んで自ら営業や配達に出かけていく夫の隣に美和子さんも乗り込み、助手席に座るだけではなく、一升瓶が10本入った木箱を運搬したりもしていたという。と、これは美和子さん自身の回想ではなく、地元の酒販店・「今宮屋酒店」の西山昌夫(故人)さんの証言だ。芦屋のお嬢様は、関東平野で酒の木箱を持ち上げる際に「こんなはずでは……」と思わなかったのだろうか。
当のご本人に訊ねてみると、「全然。何も考えずに嫁いできちゃったし、うちも商売屋だったから、家業を手伝うのは当たり前だと思ってたもん」とからからと笑う。
美味しいパンやお菓子やコーヒーがなくて平気でした? の問いにも「私はね、何もできないけど、順応能力だけはあるの。パンがないなら、ごはん炊いて食べればいい、と」。
美和子さんは、お酒が飲めない体質だ。なので酒飲みの適量がわからない。結婚当初、毎晩7合の酒を飲む夫に対しても「そういうものか」と思っていたが、ある時、新婚家庭を訪ねてきたセンムの姉から「なんてことなの」と叱られて、晩酌時の酒は3合に減ったそうだ。商売屋で育ち、さまざまな客人を見て育った美和子さんは、大抵のことは「そういうものか」と受け入れてしまう。結婚2年目に長女、さらにその2年後に次女、と2人の子どもに恵まれた後。センムは突然、「もう御用聞きには行かない」と言い出した。「地元だけの商売じゃなくて、良いお酒を造って全国区に出て行こうとしていた」と美和子さんは、当時のセンムの心をおしはかる。
しかし、商売の形が変わってしまうと日銭は入らなくなってくる。そこからは、義母の敏さんと一緒に知人や取引先、果ては芦屋の実家、親戚にまで借金を頼み込む日々に突入。「なんでもやろう」と思っていた妻は、金策担当にもなったのだ。申し入れに対して気持ちよく貸してくれる人、投げるようにお金を渡す人。「お金を貸してくれる時にも、いろいろと人柄は出るなあ」と感じながら、あちこちで美和子さんは頭を下げ続けた。
その状況下では、蔵内のセンムの立場はますます難しいものになり、ある時、親子喧嘩ののちに蔵を出てきてしまったセンムは「こんなにわかってもらえないなら、ほかの仕事をしようかな」と美和子さんに告げたという。親と揉めなくてすむ、借金をしなくてもすむ、もっと生活が安定する他の仕事を。そう願う妻も多かろう。しかし、その時のセンムに美和子さんが放った一言は「私は酒蔵にお嫁に来たのよ」。後年、センムは「そう言われたら、何も言い返せなかった。あの一言がなかったら、俺は今頃、どうなっていたかな……」と回想している。が、このエピソードについての美和子さんの回想はアッサリしている。「そうだったっけ(笑)」。
1976年の結婚から1987年の全量純米蔵移行までの歳月は11年間に及ぶ。その間の苦労をお聞きしても、愚痴も泣き言も漏らさない美和子さんの答えは「それが、よく覚えてないのよ」ばかりなのだ。税務署、取引先銀行の双方から責め立てられる日々が続くなか、1988年、神亀酒造の酒質を評価する別の銀行が蔵への融資を申し出たことで、長い金策の苦労が終わった。その際に「わあ、これが人間の暮らしというものか」と安堵したことだけは覚えているという。「お金の心配をしている時とは、1日の時間の流れ方が違う~と思った。もう、あちこち駆け回ってお金を集めて、3時までに銀行に駆けこまなくてもいいんだなあって。お昼ご飯も、お昼に食べられるなあって(笑)」。
晩年のセンムが、山あり谷ありだった日々を振り返った際、美和子さんのことを「うちのかあちゃんは昔の人だから、心は」と筆者に語ったことがある。曰く「昔の人は優しかったよ。苦労のどん底を見ているからじゃないかな。これ以上やられたら死ぬよっていう極限までね。だから、いきおい優しくならざるをえないんだよ」。その優しさを美和子さんは持っている、と。
蔵の経営が順調になった頃、金を借りる側から貸す側へと立場が変わった時も美和子さんは「貸したお金が返ってくるのをアテにするのはやめよう」とセンムに言い、借金の催促はしなかったそうだ。「胎(はら)が据わっている。どこに行くにも、何をするにも、金はかあちゃんが揃えてくれた」とセンムは感謝していた。
その感謝を美和子さんに伝えると「だって、現金を揃えないと。センムはATMを使うのが苦手だったから(笑)」
出張先や外出先では渡した現金をきれいに使い、時にはセンムを慕う人も連れて、センムは自宅に帰ってくる。母屋とは異なり、センムが家族と暮らす家は広いとはいいがたい家だが、朝起きるとセンムと一緒に「知らないおじさんがおコタツで寝ていた」と、これは小川原家の娘さんたちの回想だ。人間だけではなく、その部屋には、時には犬3匹も鳥も一緒にいたから、コタツのある部屋は狭い上に賑やかだった。
美和子さんにウケていたのは、とある客人の一言だ。「センムが『犬小屋みたいなもんですけど』って言って招き入れたら、その人が『いや、犬小屋にしちゃ立派です』って、真顔で……(笑)」。
昭和から平成へと時代は移り、醸造量は倍増の1000石へ。歳月が流れるにつれ、蔵の設備は整っていったが、自宅の中は変わらなかった。
「蔵の若い衆たちの部屋を個室に変えて、お風呂場を大きくしたことがあって。その時にセンムが『蔵に全部、金を使っちゃってごめんな』って私に謝ってくれたことがあったけど、別に大きな家に住みたいなんて、全然思わなかった。食べて、寝て、その場所さえあれば」。
その変わらないままの自宅で「こんなに毎日一緒にいたことはない」という日々となったのは、2016年の春から翌年の春までのセンムの闘病期間だ。すい臓がんという病名と余命の診断がくだり、手術を経て、入退院を繰り返していたセンムは、最期の数ヶ月は家族と自宅で過ごしたいと希望して自宅療養へと切り替えた。美和子さんの手料理を毎日食べ、春の桜を友人たちと楽しみ、蔵から運ばれてくる新酒をベッドの上で次々と利き酒する日々を過ごし、その年のすべての酒造りが終了した2017年4月19日。センムは杜氏さんに労いの言葉をかけ、同日の夕刻、昏睡状態へと陥った。
その報を受けて、全国各地から蔵元、酒販店、飲食店の人たちなど、親しかった大勢の人が自宅を訪ねてきたのは4月21日。自宅に入りきれない人たちは、玄関前や駐車場に並んでセンムとの対面を待った。意識は戻らないままだったが、まるでお釈迦様の涅槃図のように、センムを慕う人たちがベッドのまわりに集う様子を見ていた美和子さんは、憔悴のさなかではあったが「この人はなんて幸せな人だろう」と思ったという。家族全員と親しい友に見守られながらの旅立ちは穏やかだった。
永別から7年。センムと暮らした家の中で、その不在を感じ続け、受け入れてきた歳月は、長いようにも短いようにも感じられるという。
「お仏壇の前に座ると、いろんなこと喋って。一番多いのは、頼み事かもしれない(笑)」。
センムは、強い信念の持ち主だったが、それを貫くためには、また別の強さを持つ人の存在と安らぎとが必要だったことだろう。トラックの助手席に初めて美和子さんが座った日は、嬉しかっただろうな。一人で走り始めた長い道のりに、頼りになる同乗者がいたことをファンの一人としては、嬉しく思う。
文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子