「人形町きく家」。銘酒と絶品料理の取り合わせで、愛飲家、美食家に愛され続けている和食の名店だ。しかしながら、敢えて料亭ではなく「酒亭」と名乗っているのは、日本酒に対してのひとかたならぬ思い入れと愛情を持つがゆえ。夫婦二人で力を合わせて店を盛り立て、研鑽を積む過程では、神亀酒造の酒との出会いがひとつのエポックともなった。 「いい人と出会えた」と二人が振り返る、小川原センムとの親交はどのようなものだったのだろう。
「個性の強い、すごく、はっきりとしたお酒。今まで飲んだお酒とは違うし、たしかに良いけど……。でも、こういうお酒なら他にもあるかな、きく家にはどうかなって、ちょっと疑うみたいな感じでした(笑)」。
人形町きく家の女将・志賀キエさんが神亀という酒と初めて出会った時の感想だ。時代は1980年代半ばを過ぎて、好景気の真っただ中。日本酒業界では、YK35(山田錦・熊本9号酵母使用・精米歩合35%)の大吟醸酒が最高峰とされ、吟醸酒ブームも起きていた頃。当時のきく家には、すでに全国各地の名だたる銘酒が揃えられていた。
「でもね、そのあと真剣に探しだしてみると、神亀みたいな酒はないんですよ。旨味があって、味の厚みがあって、最後のキレもある。そういうお酒は、その当時、ほかには見つけることはできなかったですね。私はいい男を取り逃したみたいな気持ちになって(笑)あらためて神亀を取り寄せて飲んでみました。そうしたら、やはり、キレのあるいいお酒だと思いましたね」。
きく家の始まりは、キエさんが1975(昭和50)年に独力で始めた6席の食堂だ。夫であり店の親方である志賀真二さんと出会ったのは1981年。客として訪れた真二さんは、当時は印刷会社で製版を手がける技術者だった。気持ちの優しい真二さんが深夜まで働くキエさんの忙しさを見かね、洗いものを請け負ったところ、その手際の良さを見込まれて、ときおり店を手伝うように。やがて、包丁さばき、色彩感覚にすぐれた料理の盛り付け、生来の舌の良さなど、料理人としての才に恵まれていたことから勤務先を退職、1982年からは、きく家の板場をあずかる親方となった。
以来、夫婦二人で力を合わせ、多くの愛飲家、食通たちに「人形町にきく家あり」と支持され、連日大盛況の人気店となるまでの道のりは、飲食店のサクセスストーリーとして一冊の本(『人形町酒亭きく家繁盛記』(草思社/2001年)にもなったほどだ。
真二さんの生まれは、新潟県十日町市松之山。山間部の清浄な水と自然の産物だけを口にして味覚の鋭さを保ったまま育ってきた。きく家で扱う大吟醸酒、吟醸酒とは一線を画した異色の酒・神亀を初めて口にした時は、その熟成した味わいに「あれ、老ねてるのかな、と。最初はね。でも、また飲んじゃう。自然に飲めちゃうんだよね。で、翌朝は5時頃に起きなきゃいけないんだけど、頭も痛くならないし身体が楽。あれ、これはいい酒だなと思った」。
2人の意見が一致して、神亀酒造の酒を扱い始めた頃、風変わりな一人客が店にやってきた。注文の仕方が何かと常人とは違う。カウンターであれこれと応対していたキエさんは、厨房にいる親方に「普通じゃない人が来た」と伝えたという。
「料理もお酒も選び方が変わっていたし、この純米をお燗してくださいとか頼まれて。純米とか吟醸をお燗つけてくれなんていう人、その頃はいないですからね。そのうちに神亀の純米大吟醸をお燗してくれと頼まれて、あれっ?と。その時は名乗られなかったけど、あとで小川原センムさんだったんだとわかりました。後日、私たちから訪ねて行って会った時に、ああ、そうだったのかと」。
志賀夫妻が初めて神亀酒造を訪問した時の第一印象は、前述の著作にも綴られており、その文章は、キエさんの正直な人柄のとおりに率直だ。以下、引用すると。
≪それまで蔵元さんといったら、その地方の名家・旧家で、みんな御殿のような家ばかりです。(中略)それに比べて神亀さんでは、事務所の立てつけは悪いし、ドアなんかガタガタです。蔵の中も閑散としているし、正直言って、こんな貧乏な蔵元もあるんだなという第一印象でした。ところが、いろいろときき酒をさせて頂いたのですが、お酒はものすごくいい≫
初対面のセンムに対して、キエさんは、店で扱っていた純米吟醸について抱いていた疑問を口にしてみたという。
「同じ“ひこ孫”の純米吟醸なんですけど、ラベルが2種類あって、金色のポチポチが入ったラベルと入っていないラベルとでは、飲んだ時の印象が違います。お酒の味わいの入り方も違うし、終わり方も違う。私は、この金色のポチポチが入ったラベルのほうの酒が好きだから、コースなら焼き魚以降に出して料理と合わせてみたいです。センムさんにそう話したら、『フーン』とか言われて(笑)」。
その時は「フーン」だったが、その後、週に1度の頻度でその純米吟醸を仕入れ続け、2ヶ月近くが過ぎた頃。再び蔵を訪ねた際に、夫妻はセンムに冷蔵コンテナへと誘われた。
「冷蔵庫の戸を開けてみな、と言われて開けてみると、私が好きだと言ったほうの純米吟醸が20ケースくらい積んでありました。あとでわかったんですが、同じ純米吟醸でも7号酵母と9号酵母の違いがあったんですね。私が好きだと言っていたのは、7号酵母のほうでした。当時は、酵母の違いまではあまり語られなかったけれど、2つの酒がはっきりと違うってことだけはわかったんですよね。これもあとから聞いたことですが、7号酵母というのは普通に造ると普通の酒になっちゃうそうなんですが、神亀さんのところでは、若い蔵人さん達の勉強のために50日くらいかけた(長期もろみの)7号酵母のお酒を造っていたそうなんですね」。
キエさんが7号酵母の酒を食中酒として選んだことを、センムは相当喜んでいたらしい。本人からは語られることがなかったが、蔵を何度も訪ねるようになった頃、センムの妻である美和子さんから「お酒の違いをわかってくれる人が現れて、センムはすごく喜んでたのよ」と聞かされたという。
「センムさんは、口には出さないけれど、すごい洞察力の持ち主でしたね。見えていることの全ては口に出さないし、恥ずかしがり屋だから偉そうに何か言うようなこともない。ストレートに誉めてくれることもない。けれども、何かわからないことが出てきて質問した時というのは、きちんと丁寧に答えてくれていましたね。手取り足とり教えてくれるということではない。でも、いい人に出会えて、いい人にお酒を教えてもらえているなと思いました」。
2人が初めて神亀酒造を訪問した1986年は、蔵が全量純米蔵に移行する前年だ。市場的には純米酒の割合は約1割ときわめて少なく、さらにそれを熟成させ、お燗にして飲むというスタイルは、まだ浸透していなかった。国の指針としてアルコール添加の酒を奨励し、蔵内の熟成酒を不良在庫と見なす税務署との闘いに疲弊するセンムは、親方の目には「いじめに遭っているようなもの」と映ったという。
「純米酒に対しては、なんでアルコールを添加しないのか、と非国民みたいな言われようでね。蔵の中の酒を熟成させていることの意味も税務署の誰にもわかってもらえない。センムは、本当に大変なことをしてるんだなと思いましたね」。(続く)
文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子