特撮を愛する者、特撮の大巨匠・円谷英二監督が一体何を召し上がっていたのか……知りたいですよね?「シン・ウルトラマン」、「シン・ゴジラ」など数々の日本映画を監督してきた樋口真嗣さんの、仕事現場で出会った“ゲンバメシ”とは?
世の中には星の数ほどとまではいかないけど映画のスタジオはいっぱいございます。
私が入った1980年代という日本映画界がどん底と言われた時期でさえ東京だけでも世田谷には東宝、国際放映、東京映画、東宝ビルト、調布には日活に大映、川を挟んだ神奈川県にはテレビ映画用の生田スタジオに時代劇オープンがあったり、大映テレビ部のスタジオが多摩川沿いに点在して、西武池袋線大泉学園には東映、ポンと離れた神奈川県鎌倉市に松竹の大船撮影所がありました。
その中で撮影準備……衣装合わせや美術倉庫から撮影施設、編集、音響の仕上げまで一貫して管理できる、所謂“撮影所”は東宝、国際放映に日活、東映、松竹の五ヶ所ぐらいで、かつて映画界に君臨し五社協定と呼ばれるカルテルを締結していた大映が抜けています。
この頃の大映は1971年の経営破綻の清算で調布にあった広大な敷地を切り売りしてて、撮影用ステージが5つと美術制作部門しか撮影所には残っていませんでした。のちに大映が角川に併合されてから行われた大工事で、総合的な機能を持つ撮影所に生まれ変わるまでにはまだ10年以上の歳月を待たなければならないのですが、その中でなぜ私は世田谷の東宝スタジオを選んだというか、東宝にしがみついていたかというと、東宝には特撮をやる部署があったからなんです。
東映にも所内に特撮研究所があり、今では切ってもきれない関係があるんですが、その頃は五社協定の名残でスタジオを渡り歩くのは余程の力と才能がないと許されない、まだそんな雰囲気が残っていたので選ぶなら一つ、でした。
そうなると特撮のある東宝、というかあの円谷英二監督がゴジラを撮っていた撮影所で仕事をしたいじゃないですか?改めて思いを文字にするとあの頃の夢と希望に溢れていた頃に戻りますねえ。心が汚れて荒んでない頃に!
そんな円谷英二監督は何を撮影所で一体何を食べていたんだろう?一緒に仕事をしていた先輩はまだ撮影所の中にいっぱい残っていたけども、みんな口を揃えて「サロンのカレー」だというのです。
撮影所内の新館一階のサロン。我々下っぱはその隣の社食でプリフィックスの決まりものをかき込むんだけど、スターや監督、プロデューサーといったポスターに名前が踊るような人たちはゆったりとしたソファーでくつろぎながらランチを食べるんだけど、その中でもいつもカレーライスを注文していたというのです。
曰く、一回気にいるとずーっとそれを食べ続けるような人だったとか、むしろ仕事に夢中で何を食べるかを迷ったりする時間でさえもったいないほどの仕事人間だったとか、そんな人柄を忍ばせるエピソードとして語られていました。
しかしそんなにカレーばかりなのか?だいたいサロンは夕方には閉まっちゃうし。というかそこまで美味しかったか?サロンのカレー!
疑問は膨らんでいきますが解決しても何の足しにもならないので特に頑張って調べるということもしませんでしたが、何年も経ち、私の仕事の拠点が東宝以外の撮影所や製作会社にも広がってきた頃のことでした。東宝撮影所の正門から小田急線祖師谷大蔵駅に向かって坂を上がっていくと、すぐに円谷英二監督が興した製作会社、円谷プロダクションの本社がありました。
本社とはいっても元々は撮影所に入っている衣装会社、京都衣装の倉庫を居抜きで社屋にしているようなところで、それまでエキストラの着る軍服が掛かっていた梁には怪獣や宇宙人の着ぐるみがかけられるようになったのです。
昭和40年代前半……世は怪獣ブーム、東宝ではゴジラシリーズが軌道に乗りドル箱として量産され、テレビでは円谷プロのウルトラシリーズが始まります。その間隙を縫うように戦記大作の特撮が入ります。昼は東宝で撮影を指揮し、夜は円谷プロでウルトラマンの編集作業を確認する――。作業場所が近くにあるからできるようなものですが、その通り道に円谷監督の夕食場所があったのです。
撮影所正門を出て祖師谷大蔵駅方面へ歩くとすぐに旧世田谷通りと分岐します。ここは標識を守って止まらないと物陰に隠れていた警官に捕まって切符を切られる魔の一旦停止なんですけども、警官が姿を隠して見張っている木立ちの中にひっそりと佇む蕎麦屋がありました。「紅葉屋」という蕎麦屋さんで、円谷プロで作業してる時はここの蕎麦を好んで食べてたんだよ、と円谷プロの仕事をするようになった時にかつて円谷監督の下で仕事をしていた先輩から聞きました。ここで面白いのはゴジラを作っていた東宝とウルトラマンを作っていた円谷プロ、作っている内容とかメチャクチャ近しいのに、スタッフの顔ぶれはまったく違ったのです。
シリーズ一作目の「ウルトラQ」は東宝で活躍していたスタッフが駆り出されましたが、軌道に乗った後半からどんどん若いスタッフに交代していきました。ベテラン揃いで伝統を守る東宝と野心的な若手が集まった円谷プロ。対極的なチームを並行して走らせて指揮を取っていた円谷英二監督の多忙さは想像を絶しますが、そんな監督が食べていた蕎麦屋さん、なかなか趣きが……というか、暖簾をくぐるには躊躇するような古さでした。でもためらってばかりも居られないではないですか!
円谷英二監督と同じものを食べられるんですよ?
文・イラスト:樋口真嗣
世の中には星の数ほどとまではいかないけど映画のスタジオはいっぱいございます。
私が入った1980年代という日本映画界がどん底と言われた時期でさえ東京だけでも世田谷には東宝、国際放映、東京映画、東宝ビルト、調布には日活に大映、川を挟んだ神奈川県にはテレビ映画用の生田スタジオに時代劇オープンがあったり、大映テレビ部のスタジオが多摩川沿いに点在して、西武池袋線大泉学園には東映、ポンと離れた神奈川県鎌倉市に松竹の大船撮影所がありました。
その中で撮影準備……衣装合わせや美術倉庫から撮影施設、編集、音響の仕上げまで一貫して管理できる、所謂“撮影所”は東宝、国際放映に日活、東映、松竹の五ヶ所ぐらいで、かつて映画界に君臨し五社協定と呼ばれるカルテルを締結していた大映が抜けています。
この頃の大映は1971年の経営破綻の清算で調布にあった広大な敷地を切り売りしてて、撮影用ステージが5つと美術制作部門しか撮影所には残っていませんでした。のちに大映が角川に併合されてから行われた大工事で、総合的な機能を持つ撮影所に生まれ変わるまでにはまだ10年以上の歳月を待たなければならないのですが、その中でなぜ私は世田谷の東宝スタジオを選んだというか、東宝にしがみついていたかというと、東宝には特撮をやる部署があったからなんです。
東映にも所内に特撮研究所があり、今では切ってもきれない関係があるんですが、その頃は五社協定の名残でスタジオを渡り歩くのは余程の力と才能がないと許されない、まだそんな雰囲気が残っていたので選ぶなら一つ、でした。
そうなると特撮のある東宝、というかあの円谷英二監督がゴジラを撮っていた撮影所で仕事をしたいじゃないですか?改めて思いを文字にするとあの頃の夢と希望に溢れていた頃に戻りますねえ。心が汚れて荒んでない頃に!
そんな円谷英二監督は何を撮影所で一体何を食べていたんだろう?一緒に仕事をしていた先輩はまだ撮影所の中にいっぱい残っていたけども、みんな口を揃えて「サロンのカレー」だというのです。
撮影所内の新館一階のサロン。我々下っぱはその隣の社食でプリフィックスの決まりものをかき込むんだけど、スターや監督、プロデューサーといったポスターに名前が踊るような人たちはゆったりとしたソファーでくつろぎながらランチを食べるんだけど、その中でもいつもカレーライスを注文していたというのです。
曰く、一回気にいるとずーっとそれを食べ続けるような人だったとか、むしろ仕事に夢中で何を食べるかを迷ったりする時間でさえもったいないほどの仕事人間だったとか、そんな人柄を忍ばせるエピソードとして語られていました。
しかしそんなにカレーばかりなのか?だいたいサロンは夕方には閉まっちゃうし。というかそこまで美味しかったか?サロンのカレー!
疑問は膨らんでいきますが解決しても何の足しにもならないので特に頑張って調べるということもしませんでしたが、何年も経ち、私の仕事の拠点が東宝以外の撮影所や製作会社にも広がってきた頃のことでした。東宝撮影所の正門から小田急線祖師谷大蔵駅に向かって坂を上がっていくと、すぐに円谷英二監督が興した製作会社、円谷プロダクションの本社がありました。
本社とはいっても元々は撮影所に入っている衣装会社、京都衣装の倉庫を居抜きで社屋にしているようなところで、それまでエキストラの着る軍服が掛かっていた梁には怪獣や宇宙人の着ぐるみがかけられるようになったのです。
昭和40年代前半……世は怪獣ブーム、東宝ではゴジラシリーズが軌道に乗りドル箱として量産され、テレビでは円谷プロのウルトラシリーズが始まります。その間隙を縫うように戦記大作の特撮が入ります。昼は東宝で撮影を指揮し、夜は円谷プロでウルトラマンの編集作業を確認する――。作業場所が近くにあるからできるようなものですが、その通り道に円谷監督の夕食場所があったのです。
撮影所正門を出て祖師谷大蔵駅方面へ歩くとすぐに旧世田谷通りと分岐します。ここは標識を守って止まらないと物陰に隠れていた警官に捕まって切符を切られる魔の一旦停止なんですけども、警官が姿を隠して見張っている木立ちの中にひっそりと佇む蕎麦屋がありました。「紅葉屋」という蕎麦屋さんで、円谷プロで作業してる時はここの蕎麦を好んで食べてたんだよ、と円谷プロの仕事をするようになった時にかつて円谷監督の下で仕事をしていた先輩から聞きました。ここで面白いのはゴジラを作っていた東宝とウルトラマンを作っていた円谷プロ、作っている内容とかメチャクチャ近しいのに、スタッフの顔ぶれはまったく違ったのです。
シリーズ一作目の「ウルトラQ」は東宝で活躍していたスタッフが駆り出されましたが、軌道に乗った後半からどんどん若いスタッフに交代していきました。ベテラン揃いで伝統を守る東宝と野心的な若手が集まった円谷プロ。対極的なチームを並行して走らせて指揮を取っていた円谷英二監督の多忙さは想像を絶しますが、そんな監督が食べていた蕎麦屋さん、なかなか趣きが……というか、暖簾をくぐるには躊躇するような古さでした。でもためらってばかりも居られないではないですか!
円谷英二監督と同じものを食べられるんですよ?
文・イラスト:樋口真嗣