激辛チャーハンを求めて、遠路はるばる「華華餐庁」へ。さて、その味はいかに?「シン・ウルトラマン」、「シン・ゴジラ」など数々の日本映画を監督してきた樋口真嗣さんの、仕事現場で出会った“ゲンバメシ”とは?
指折り数えると30年以上前です。そんな昔の話をさもこのあいだのように語るとは、かえすがえすに俺もヤキが回ったとしか言いようがございません。
最近の我が社周辺の気圧配置ですと、我々が甘やかしてその若い芽を摘み取り損ね、その台頭に怯える日々の若手連中がすでにその下の世代の小僧どもから「老害」と呼ばれているらしく、そんなこと言われたら俺たちは何になるんだ?
恐ろしい時代になってまいりました。
でも自分の人生、もうやり直せる時期をとうに過ぎてしまったのでこのまま前進するしかありません。ということで撮影所の入り口近くで営業していて30年前に通っていたんだけど、その時期に遠くへ移転しちゃった台湾料理屋さんが神奈川県内で営業しているという情報をキャッチしたので行ってきましたよ。「華華餐庁」。
撮影所の親方はファーファって言ってたのですが、ネットの情報だとホワホワサンテン。ファーファは柔軟剤になっちゃうもんねえ。圏央道の相模原愛川インターチェンジで降り、相模川沿いの河岸段丘を登っていくと中津工業団地が広がっています。戦時中は陸軍造兵廠を擁する軍都として栄えた相模原に隣接した陸軍相模飛行場のあった所が、戦後整備されて工業団地になったそうです。
その入り口にある、ということはすでに斜陽を迎えほぼどん底とも言えた映画界に見切りをつけて、新たに工業団地の従業員の胃袋に狙いを定めた出店だったのでしょうか?
その店構えは想像を上回る本格中華の装飾が施されています。 我々の年代だとリンリン・ランランがCMをしていた芝増上寺前の留園のような黄色と朱色の中華風ファザード、富の象徴ラッキーカラーで、東宝前時代でもここまでド派手ではなかったのではないか?というかこのストイックな工業団地の前でも相当な異彩を放っています。
というか東宝前時代の外観記憶がほとんどありません。なんか赤い提灯がいっぱいぶら下がっていたような気がするんですけども。
入り口にはテイクアウト用の冷蔵ガラスケースが占拠していて、地域に密着してはや30年というお店の歴史を感じさせますな。ドアを開けると小型犬が飛び出してきた。厨房にいるお母ちゃんが飼っているのか、まあなんともフリーダムで、これも30年の月日が培ったモノでしょう。
我々を30年前の客とも気づくことなく、いらしゃいませ~と案内するお母ちゃんのカタコトの日本語は30年の歳月をもってしても変わらないのか、変えるつもりなんかサラサラないのかは定かではないけど、ホワイトボードに書かれたメニューに踊る南国チャーハンの文字と併せてこの店が間違いなく華華だと実感として押し寄せてくるではありませんか。
なんか感動系タイムトラベル映画のようです。
東宝前時代のなじみ客の皆さんとはまだ交流が続いているらしく、俳優の中村雅俊さんからのお花とか、映画監督の降旗康男さんたちとの写真が飾られてたり。
降旗監督は亡くなる直前にNHKの番組で紹介するほどの入れ込みようだったそうです。
レジ横にはスタジオの前で降旗組の皆さんと一緒に並んで撮った記念写真が飾ってありました。あの時期の降旗組ですから、一緒に主演の俳優さんがお母ちゃんと一緒に並んでます。
注文はもちろん南国チャーハン。
で、30年の歳月を経ての南国体験はといえば、かつてのヤバい辛さはなりをひそめ、だいぶマイルドになっていたのです。
これはこのブランクの間に我々の食生活において辛い食べ物がかなり一般化して、激辛耐性がついたのではないか?思い返せば博多出張のお土産で初めて口にした明太子の衝撃や、スパゲッティ(パスタにあらず)の付け合わせで粉チーズと並んでいたタバスコ、焼肉屋の漬物でその味覚を想起させる鮮烈な色の韓国風漬物を恐る恐る口に運んだ時、タイからやってきたエビベースのスープなんだけどとにかく刺激的だと言う下馬評だったトムヤムクン。争うように辛さを何倍って単位で競い合ったサブカル臭の強いカレーショップたち。
それらの辛さが初めてマスプロダクツとして開発流通されたのが湖池屋のポテトスナック「カラムーチョ」、それに追いつけ追い越せでもっと辛さを追求したのが東鳩の「暴君ハバネロ」。 30年の間にこんなに我々の味覚は辛さに慣らされ鈍感になってきたのか?と思いきや、お母ちゃんに聞いたら昔みたいに辛いと作るのがしんどいから辛いの減らしたのヨ。だと?つくる身を蝕むほど辛かったのか??命懸けの辛さの南国チャーハンだったのです。
文・イラスト:樋口真嗣
指折り数えると30年以上前です。そんな昔の話をさもこのあいだのように語るとは、かえすがえすに俺もヤキが回ったとしか言いようがございません。
最近の我が社周辺の気圧配置ですと、我々が甘やかしてその若い芽を摘み取り損ね、その台頭に怯える日々の若手連中がすでにその下の世代の小僧どもから「老害」と呼ばれているらしく、そんなこと言われたら俺たちは何になるんだ?
恐ろしい時代になってまいりました。
でも自分の人生、もうやり直せる時期をとうに過ぎてしまったのでこのまま前進するしかありません。ということで撮影所の入り口近くで営業していて30年前に通っていたんだけど、その時期に遠くへ移転しちゃった台湾料理屋さんが神奈川県内で営業しているという情報をキャッチしたので行ってきましたよ。「華華餐庁」。
撮影所の親方はファーファって言ってたのですが、ネットの情報だとホワホワサンテン。ファーファは柔軟剤になっちゃうもんねえ。圏央道の相模原愛川インターチェンジで降り、相模川沿いの河岸段丘を登っていくと中津工業団地が広がっています。戦時中は陸軍造兵廠を擁する軍都として栄えた相模原に隣接した陸軍相模飛行場のあった所が、戦後整備されて工業団地になったそうです。
その入り口にある、ということはすでに斜陽を迎えほぼどん底とも言えた映画界に見切りをつけて、新たに工業団地の従業員の胃袋に狙いを定めた出店だったのでしょうか?
その店構えは想像を上回る本格中華の装飾が施されています。 我々の年代だとリンリン・ランランがCMをしていた芝増上寺前の留園のような黄色と朱色の中華風ファザード、富の象徴ラッキーカラーで、東宝前時代でもここまでド派手ではなかったのではないか?というかこのストイックな工業団地の前でも相当な異彩を放っています。
というか東宝前時代の外観記憶がほとんどありません。なんか赤い提灯がいっぱいぶら下がっていたような気がするんですけども。
入り口にはテイクアウト用の冷蔵ガラスケースが占拠していて、地域に密着してはや30年というお店の歴史を感じさせますな。ドアを開けると小型犬が飛び出してきた。厨房にいるお母ちゃんが飼っているのか、まあなんともフリーダムで、これも30年の月日が培ったモノでしょう。
我々を30年前の客とも気づくことなく、いらしゃいませ~と案内するお母ちゃんのカタコトの日本語は30年の歳月をもってしても変わらないのか、変えるつもりなんかサラサラないのかは定かではないけど、ホワイトボードに書かれたメニューに踊る南国チャーハンの文字と併せてこの店が間違いなく華華だと実感として押し寄せてくるではありませんか。
なんか感動系タイムトラベル映画のようです。
東宝前時代のなじみ客の皆さんとはまだ交流が続いているらしく、俳優の中村雅俊さんからのお花とか、映画監督の降旗康男さんたちとの写真が飾られてたり。
降旗監督は亡くなる直前にNHKの番組で紹介するほどの入れ込みようだったそうです。
レジ横にはスタジオの前で降旗組の皆さんと一緒に並んで撮った記念写真が飾ってありました。あの時期の降旗組ですから、一緒に主演の俳優さんがお母ちゃんと一緒に並んでます。
注文はもちろん南国チャーハン。
で、30年の歳月を経ての南国体験はといえば、かつてのヤバい辛さはなりをひそめ、だいぶマイルドになっていたのです。
これはこのブランクの間に我々の食生活において辛い食べ物がかなり一般化して、激辛耐性がついたのではないか?思い返せば博多出張のお土産で初めて口にした明太子の衝撃や、スパゲッティ(パスタにあらず)の付け合わせで粉チーズと並んでいたタバスコ、焼肉屋の漬物でその味覚を想起させる鮮烈な色の韓国風漬物を恐る恐る口に運んだ時、タイからやってきたエビベースのスープなんだけどとにかく刺激的だと言う下馬評だったトムヤムクン。争うように辛さを何倍って単位で競い合ったサブカル臭の強いカレーショップたち。
それらの辛さが初めてマスプロダクツとして開発流通されたのが湖池屋のポテトスナック「カラムーチョ」、それに追いつけ追い越せでもっと辛さを追求したのが東鳩の「暴君ハバネロ」。 30年の間にこんなに我々の味覚は辛さに慣らされ鈍感になってきたのか?と思いきや、お母ちゃんに聞いたら昔みたいに辛いと作るのがしんどいから辛いの減らしたのヨ。だと?つくる身を蝕むほど辛かったのか??命懸けの辛さの南国チャーハンだったのです。
文・イラスト:樋口真嗣