神奈川県藤沢市の酒販店「藤沢とちぎや」の平井順一さんは、春夏秋冬の神亀酒造に通い続けた人だ。会いたくて通った先の小川原センムからは「基本、誉められることはなかった」と笑うが、学びたいと願って関わり続けた歳月は約20年間。無類の照れ屋で口の悪いセンムは、平井さんにどんなことを伝えていたのだろう。
神亀酒造へと通い、センムとの会話を重ねていくうちに、平井さんは自分の店も『純米酒専門店』にしよう、と気持ちを固めていく。
「うちの店が日本酒を扱い始めた頃、業界全体の純米酒比率は6%~7%で、一割もなかったんです。その頃、センムと飲んでいた時に言われたのは『日本中の蔵がアル添をやめたら、日本は米が足りなくなる』と。その裏付けの数字とかは僕は知らないけれども、その話自体がものすごくかっこよかった。米が足りなくなる日本ってすごいよねって思って」。
その時の会話がずっと心の中に残っていた平井さんは、実際に専門店化をはかった1998年に店名の前に『純米酒専門店』と記すようになる。
「うちは『純米酒専門店』になるんだと思って、本当にそう名乗るようにしたのは、間違いなくセンムの影響です。純米酒が7%しかないなら、残りの93%の可能性を求めようと思いました。ただ、センムは、アル添否定論者のように言われてしまいがちですが、僕が蔵の隅っこでいろいろな人たちと話している時に聞いた感じでは、ほかの蔵の人にアル添がダメとは言ってなかったんですよ。神亀酒造は、全部純米酒だけにしたけれど、それぞれの蔵の事情もあるし、需要があるなら仕方ないという感じで話をしていましたね」。
純米酒専門店への転換をはかった平井さんは、友人の酒販店『勝浦酒店』(藤沢市)の勝浦一祝(かずのり)さんと二人で『藤沢吟醸祭・うまいじゃん純米酒』という酒のイベントを企画する。第一回目の開催は2001年だった。
「その年の11月に東京の茗渓會舘で「上原浩先生*を囲む会」が開催されたんです。その時にたくさんの蔵元さんが上京してくると聞いて、それなら、そのまま帰すことはない(笑)、藤沢でお酒の会をやっちゃえと」。
企画・敢行したその会には、センムも蓮田から藤沢へ駆け付けてきた。参加蔵元30蔵に対して、参加者は300人。結果は、大盛況となった。以来、2016年に病気が発覚するまでは、センムは毎年、泊まりがけで藤沢へとやってきてブースに立った。
「いつだったか、蔵の人から『センムは藤沢の会の予定は先決事項にしていますよ』と教えてもらったことがあって。ありがたいなと思いましたね」。
*上原浩さんは、鳥取県生まれの酒造技術者。鳥取県工業試験場技師を経て、全国各地の酒蔵を巡回指導し、純米酒の啓蒙に務めた(1924~2006)。
平井さんと勝浦さんは、その会で使う徳利と盃も自分たちで専用の磁器を発注し、その酒器には「純米専用」の文字を入れた。イベントも「純米酒専門」の会にしたのだ。
「センムは、飲食店などのお酒の会では55℃とか60℃とか、お酒に合わせて燗酒の温度をメニューに書くんですよね。僕は最初、そういうものなんだと思って見ていたんですけど、そのうちに僕が自分で温度を決めて、センムにこれでいいですかと聞くようにしたんですよ。そうすると、『おめえはまだわかっていない』と何度も直しが入る。でも、こっちもウンと言わせたいから、いろいろやってみると、ある時期からセンムからの直しが入らなくなったんです」。
門前の小僧ならぬ“燗つけ器前”の学びは、酒のブレンド燗であっても同様だった。平井さんは、ひたすらセンムの一挙手一投足を見つめ続けていたところがある。
「センムは、酒の会ではその場の雰囲気で純米に純吟を足すとか、そういうブレンドもしてくれていたんですよ。僕はそれを横でずっと見ていて。それで、ある時点で『僕がブレンドしてもいいですか』と聞いたら、いいってセンムが言ってくれて。そう言ってもらえるまでに、僕はもう、何回かかったかわかんないくらいブレンド燗は試したんですよね。でもある時にセンムがお客さんの前で『もうコイツがいるから大丈夫』って言ってくれたことがあったんですよ。それは、すごく覚えてますね、大丈夫って言ってもらえたと。センムから誉められるということは、基本、なかったですけどね」。
照れ屋のセンムは、口に出して人を誉めたりはしない。だが、ともに行動すること、頼み事をするということは、平井さんへの信頼の証しだったのではないか。
「センムのおばあちゃんとお父さんのお葬式の時、センムから手伝ってくれと頼まれました。奥さんからは『ごめんね、ごめんね、こんなこと頼んで』って言われたけど、いや、もうセンムからはもらったもののほうが大きいから、喜んで手伝わせてもらいますって思っていました。センムからはお葬式が終わったあとに『ありがとな』って。センムのご病気までは、ずっとそんな感じでした。亡くなるまでの20年ですね、僕がセンムとおつきあいさせてもらったのは」。
センムの病名がすい臓がんと判明した2016年の3月から亡くなる2017年の4月まで。平井さんは藤沢から蓮田へと折りを見ては見舞いに通った。平井さんと顔を合わせるとセンムは「お前が来ると熱が上がる」と憎まれ口をたたく。それでも平井さんは、センムのもとに通い続けた。
「なんで行ってたのかと聞かれても理由はなくて。難しい病気だってわかっていても、なんか、ずっとセンムと関わっていたかっただけなのかなって思うんですけど」。
センムが亡くなる3日前。まだ意識のあるセンムを最後に見舞ったのも平井さんだった。筆者もその日はセンムのもとに行っており、しかし、今までとは違うセンムの様子に自分が消沈してしまい、平井さんの存在に助けられながら一緒の電車で帰宅したのを覚えている。
その翌々日、平井さんは再び藤沢から蓮田へとやってきた。
「一日あけて、センムの意識がなくなったと電話をいただいて。それで、すぐに蓮田に行きました」。
だが、平井さんはもう、センムの枕元ではなく、自宅の外で長時間立っていた。全国各地から大勢の人が昏睡状態のセンムのもとに駆けつけてきていたからだ。
4月25日26日の両日、センムの通夜・告別式の受付に立ち、最後の片づけまでを請け負ったのも平井さんだった。
「センムとの20年のつきあいって、まあ、半分以上は笑い話だったけど、遠慮がないように見えて、僕は僕なりの遠慮と気遣いと(笑)センムに対する最大のリスペクトがあったんですよ。なんなんでしょうね、なんで、あんなにセンムのとこに行ってたんだろうって考えてみると、結局、僕は、あの人に認めてもらえるような人間になりたい、そう思って通った。そういうことだったんだと思います。返せないくらい、もらったものが大きかったですね」。
終始笑顔だった平井さんは、ここまで話すとウーン……と上を向いて目をしばたたいた。
文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子