出前の蕎麦屋とぶつかるなんて、現代ではほぼ目にすることはないが、明治時代には頻発していたようで……。本当にあった「食」にまつわる珍事件を、フードアクティビストの松浦達也さんが掘り起こす読み物連載。なぜその珍事件が起きたのか?時代背景の考察とともにお届けします。
明治時代の新聞には、しばしば出前持ちにまつわる事件や事故が描かれている。その多くは曲がり角で出前持ちとぶつかってそばを頭からかぶってしまうというような他愛もない事故だが、ときどきその後の顛末がおかしな事件が発生する。明治36(1903)年の夏には東京帝国大学(現東京大学)の教授が蕎麦屋の出前持ちにぶつかって、新聞2段分の記事になった。
仮にも帝大の教授がずいぶんと大人げない……が、明治時代の朝日新聞や読売新聞紙上には、蕎麦屋の出前と通行人が「突き当たる」事故が時折載っている。
相手の応対は様々で、神田の芸者は「ツキ当たるとは縁起がいい」と喜んだり、「無礼な」と紳士風を吹かせた人力車の客は、怒った出前持ちに天ぷら蕎麦を山高帽の上からかけられたり(山高帽の上に海老天が鎮座するという描写が本当だったかは、蕎麦の話だけに藪の中……。ああ、ガマンできずに書いてしまった)。
なぜ明治時代に出前持ちの事故が頻発したのだろうか。確かに絵面としてはコミカルだから新聞は取り上げやすいだろうし、出前を急げば曲がり角での出会い頭も増えるだろう……が、それにしても紙面への登場回数が多いように思える。なぜ蕎麦屋の出前は、明治の紙面を賑わしたのだろうか。
まずは概要から。蕎麦の出前は江戸時代の享保年間(1716~1736年)には確立されていた。当時の江戸の人口は、武家50万人、町人50万人の合計100万人程度だった。
時代が下り、前出の新聞が発行された明治後期の1900年代に突入すると、東京都の人口は200万人を突破する。だが町行く人の数が単純に倍になったわけではない。
江戸時代の武家は屋敷中心の暮らしで江戸の町を守るためにも門限も夕方6時だったが、明治に士族となって行動制限がなくなった。人口200万人の東京市民は平民として外出できるようになった。江戸時代の町人50万人を基礎とすると体感の人口密度は約4倍に増えたと言っても過言ではない。出会い頭と言えば人口密度である!(たぶん)
江戸時代の蕎麦店の件数は調査によって様々あるが、文化8(1811)年の町奉行所調べでは饂飩屋蕎麦切屋は718軒と記されているが、同時期の他説では3763軒ともされている。
少々幅があるが、信頼できる明治・大正時代の蕎麦店の数は大正14(1925)年の1374軒(東京市統計課)がベースとなるだろう。昭和13(1938)年には蕎麦・うどん屋の数は1367軒(東京市社会局職業課)へと微減しているが、大きくは変わらない。
昭和13年頃となると、東京市の人口は約400万人へと急増する。当然、出前のニーズも増え、町を疾走る出前持ちの延べ数も増え、それに連れて「突き当たる」事故は増えていっただろう。人混みを走れば人に当たる。まして本件では理学の教授は空を見上げて、前を見ていなかった。物理的に考えて、当然のことが起きていたのだ。
この事件が起きた明治36(1903)年の東京は、歩行者も含めて左側通行だった。もともと左の腰に帯刀していた江戸時代以来、人は左側通行が根づいていたが、明治維新で右側通行が導入され、習慣とのギャップに路上は混乱してしまう。明確な規則が求められ、明治33(1900)年に、東京都内では歩行者にも左側通行を求める警視庁令が出された。
にも関わらず、記事の出前持ちは右側を通行していた。だから「交番で」と言われると咎められるのを恐れて、その場から逃げ出したのだ。警視庁令が出たのはこの事件の3年前と、近い時期だったので、店の主人か誰かに「左を行けよ」と釘を刺されていたのかもしれない。
実は出前持ちのトラブルが新聞沙汰になりがちったのは、出前持ちの気質によるところが大きい。昭和の蕎麦研究の第一人だった新島繁さんの『蕎麦の事典』によれば、江戸から明治にかけての外番は「江戸時代からの寄子の古い伝統があって、生きのよい一種の侠気が流れていた」という。
つまり当時の出前持ちは、ちょっとガラが悪かった。血気盛んな若者が多ければ、「袖擦り合うも他生の縁」なんて悠長なことは言っていられない。道を歩いていて、肩が触れればトラブルになるのは昭和も明治も、平成以前の昔はだいたい同じようなものだ。
都市が発達して人口が密集し、交通のルールが未整備な都市圏で、若く血気盛んな出前持ちが東京にあふれかえった。結果、新聞沙汰になるトラブルが頻発した。
出前持ちを電動キックボードに置き換えれば、そのまま現代の話になりそうな明治の出前持ちにまつわる珍事件。翻って言えば、当時の出前持ちはそれほど時代の寵児だったとも言えるのだ。
文:松浦達也 イラスト:イナコ