総理大臣を2度務めた西園寺公望が住まう首相官邸で開かれた「牛鍋会」。参加した面々を振り返ると、国を動かす中枢人物が密談していたのかと思いきや……。本当にあった「食」にまつわる珍事件を、フードアクティビストの松浦達也さんが掘り起こす読み物連載。なぜその珍事件が起きたのか!?時代背景の考察とともにお届けします。
明治4(1871)年以降、都内には牛鍋店が次々開店し、明治10(1877)年には人口100万人の東京に550軒もの牛鍋店が軒を連ねた。人口1万人あたり、5.5軒。これは現代のコンビニチェーンと同じくらいの身近さだ。わずか数年で流行は爆発し、牛鍋ブームは文化として定着していった。
そんな世相を意識するのは政治家とて同じ。明治5(1872)年には、牛肉食の啓蒙のため、明治天皇自らが牛肉を試食している。国家元首が後押しする国の施策で、大衆の間でも爆発的な人気のコンテンツとなれば、傾倒する政治家が出てくるのは自然なことだが、次のニュースにはちょっと違和感がある。
複数の外務官僚に貴族院議員、さらには政府系新聞の主筆、陸軍大将に医学校の校長――。現代で例えるなら、官僚出身の複数のエリート議員3名と、新聞社の社長、軍部……はないので防衛省の副長官、医大の総長兼議員というようなメンバーだろうか。
平日の金曜日(明治から昭和の頃、休日は日曜・祝日のみで土曜の午前中は仕事が当然だった)から、これだけの顔ぶれを官邸に集めて、「無礼講」で牛鍋をつつく宴会を行い、あまつさえ新聞紙面の数段分を使って晴れ晴れと揮毫を開陳する。
現代の総理大臣がこんなことをしたら、メディアに追われてもおかしくない話なのに、読売新聞は喜々として特別なレイアウトを組み、揮毫を大扱いで報道している。
なんとも珍奇な話だが、その後も続いた牛鍋会は、なぜか報道されることが少なくなっていく。対して翌年に開催された泉鏡花や幸田露伴、森鴎外など錚々たる文士を招いての「雨声会」は、その後も繰り返し報道されるのに……。
密談か親睦か、この「牛鍋会」とはいったいなんだったのだろうか。この年は日露戦争戦争の翌年。まだ時代はきな臭く、考え方によってはどこまでも謎は深まる。
しかし世情からではなく、西園寺公望という人をフィルターとしてこの件を見ると、拍子抜けするような仮説が成立してしまう。
西園寺は京都生まれで、幼少時から京料理に親しんだ。20代の頃フランスへ渡り、現地で10年を過ごした。当時の国会議員の歳費以上の公費に加えて、日本公使館で書記のアルバイトをしていたが、その給料は「右から左へと、カフェーや料理屋に流れ去るやう」だったという。
朝食から魚料理と2種の肉料理のコース、16時には魚料理、鳥料理、肉料理3種、野菜に菓子3種、果物3種コースを平らげ、その上夜食のローストビーフにも舌鼓を打ったりもした。
ドイツ公使着任後もドイツ料理が舌に合わず、暇さえあればパリに行っては美食三昧。帰国後もカトリックの聖地、「ルルドの聖水」をフランスから取り寄せ、ウイスキーの水割りに使った。井戸水から上水道へと移行する時期で、もちろん水を買う習慣などない時代のことである。
西園寺が常軌を逸した稀代の食いしん坊――美食に対する執着がおかしなほど強かったと考えると、平日に「牛鍋会」が行われたことも含めて、合点が行くのだ。実際、西園寺は「牛鍋会」や「雨声会」以外にも美食を伴う会合をたびたび催し"風流宰相"とも呼ばれた。
昭和の食通の巨人・北大路魯山人が昭和7(1932)年に「西園寺公の食道楽」という文を書き残している。
魯山人曰く「西園寺公は、かねて噂に聞いているように、たべものにはなかなかやかましい人」で「薪でたいた飯でなければ口にせぬ」と西園寺公の舌を評していた。
実際、西園寺のお抱え料理人は毎年のように入れ替わった。その中にはあの「京味」の店主、故・西健一郎氏の父である西音松もいたというし、天皇の料理番としても知られる秋山徳蔵も「何と恐ろしい舌」、「食べ物については、世にもやかましい人」と、西園寺の味覚におそれをなしたという逸話も残っている。
西園寺にとって牛肉は特別だった。ベルリン滞在時の同窓の会を「牛鍋会」と名付けただけでなく、明治天皇が牛肉を口にした明治5(1872)年より早く、明治以前の慶応3(1867)年東京・白銀に日本初のと畜場開設以前から、牛肉に親しんでいた。後に当時を回想して「そのうまかったことは、忘れられぬ」と綴ってもいる。
明治から大正にかけて激動の時代に国家を牽引し、庶民からも愛された"風流宰相"の西園寺公望。「最後の元老」とも呼ばれた男もまた、食にとりつかれし一人の食いしん坊だったのだ。
文:松浦達也 イラスト:イナコ