人に青春時代があるように、かつての日本酒にも青春期のような季節があった。1980年代はじめ、地方銘柄が人々に認知される以前から、地方銘酒の魅力を伝え続けてきたのが銘酒居酒屋の店主として草分け的存在である杉田衛保(もりやす)さん。その杉田さんが地酒の師と仰いだ東京・池袋にあった酒販店「甲州屋」児玉光久さんは、埼玉・蓮田の酒「神亀」を都内で初めて販売した人だ。 業界内では異端の造り手であった神亀酒造・小川原良征さんは、二人との出会いを機に東京市場へと進出していく。杉田さんが回想する地酒の青春期とは、どんな時代であったのか。
鳥取県智頭町。人口6427人という小さな町に、遠来の客が集まってくる店がある。かつては東京で営まれていた「真菜板」という銘酒居酒屋だ。東京時代はカウンター10席のみ(無理に詰めると11席)という、ウナギの寝床のような店だったが、その10席を目がけて多くの日本酒ファンたちが高田馬場駅から10分以上の道のりを通ってきていた。
智頭町への移転は2018年秋。東京からは600キロ以上の移動距離だというのに、「真菜板」の引力おそるべし。往年の常連客達は店主恋しさに、今度は智頭駅に降り立っている。そして、その大半は同町の「諏訪泉」醸造元(連載第5~第6回掲載)にも立ち寄っていく。蔵と真菜板とは、「純米酒」と「熟成」という共通項で結ばれているため、ファンが“かぶる”のだ。
現在の「真菜板」は、町の人たちが気軽に昼食をとりに寄る手打ちうどんの店。しかし、夕刻からは日本酒ファン垂涎の銘酒が卓上に林立、フレッシュな新酒生酒から自家熟成を重ねた長期熟成古酒までが和洋の多彩な料理に合わせて注がれていく。
その酒を囲む輪の中で、絶妙な燗具合の酒を提供しているのが、店主の杉田衛保さんだ。杉田さんのキャリアは長い。かつて地方銘酒の黎明期に多くのファンを誕生させた池袋「味里」が1981年に開店する際、店長に。杉田さんは、純米酒への理解を持つ飲食店が少ない時代から、「これは本物」と自らが魅了され惚れ込んだ酒を、静かに熱く啓蒙し続けてきた。
振り返れば42年という長い道のり。その路上でさまざまな人たちとの出会いを重ねてきた杉田さんが、人生を変えた忘れえぬ人として名を挙げるのは、神亀酒造の小川原センムと故・児玉光久さんの二人だ。児玉さんは「地酒の父」として今も関係者から追慕される地酒専門店「甲州屋」の店主。杉田さんと児玉さんとの出会いは、「味里」の開店準備中の1981年春のことだったという。
「私の父も日本酒と燗酒が好きでしてね。いい酒屋があるから、と教えられたのが甲州屋さんでした。それで店を訪ねてみたら、児玉さんが全国の蔵から集めて、力を入れている銘柄がすごくたくさん並んでいてね。それで「売れないお酒は社会の迷惑です」なんて書いた紙が貼ってあるの。だって、ほんとに売れてなかったんだもん」。
その際に「埼玉にも良い酒がある」と児玉さんが杉田さんに紹介したのが、蓮田の酒「神亀」だった。
「一緒に蔵見学に行こうと誘われて、ほどなくして蓮田の神亀酒造まで行きました。そこで初めて小川原センムと会ったんです。神亀は、その当時400石未満くらいだったかな。まだ東京では販売されていませんでした。全量純米蔵になる前でしたね。お酒を保存するコンテナが4台だけありましたね」。
訪ねてきた児玉さんと杉田さん相手に、当時35歳だった小川原センムは、かたっぱしからお酒を開けて、お燗をつけては振る舞ったという。
「それがもう全部旨くてね。僕はもともと燗酒も好きだったから、すごく気にいっちゃった。熟成酒の魅力を教えて貰ったのも、その時です。児玉さんと相談して、これはもう神亀をフルラインで店に置こうという話になりました。甲州屋さんもこれから取引を始めるという時でした。まだ東京に出ていない、誰も知らない酒だから、これはチャンスだと」。3人は意気投合、大いに盛り上がった蔵見学ののち、「味里(みさと)」が同年秋にオープン。バブル期の好景気を背景に順調に客足を伸ばしていく。
1980年代前半は地酒人気に続き、吟醸酒ブームの萌芽もあった時代。「味里」では北陸や上越の地酒や高価な吟醸酒もよく出ていたが、神亀に魅了された杉田さんは、流行の酒だけでなく、神亀の全種類を店に置いた。それを喜んだセンムもまた、池袋「甲州屋」に顔を出しては、その帰りに味里へと飲みに通った。
「その頃のセンムは、イタズラ好きでね。そーっと静かに店に入ってきて、僕にも気づかれないように後ろ向きに座っていたりしてね(笑)。そのうちにご家族も連れてきてくれるようになりました。センムの家では、化学調味料を一切使わないので、私も店の食材や調味料を真剣に選ぶようになりました」。
吟醸酒を目当てに来る客たちも、神亀を飲むことで燗酒の旨さに目覚めていく。その新たなファンたちと一緒に、杉田さんは神亀酒造に足しげく通った。
「神亀の蔵に行くっていうと、一緒に行きたいという人が何人も出てきてね。15人くらいになっちゃう。みんなで行くと、センムは燗酒をふるまうだけじゃなくて、畑の枝豆や野菜をもいで出してくれたり、自分で料理を作ってくれたりもしてね。とにかく、サービス精神が旺盛な人でしたからね。それがあんまり楽しくて何度も行くから、しまいには、センムに『もう、来るな』なんて言われて(笑)。それでも行っていましたけどね。悪いなと思って、こちらでも料理を作ったり、デパートでつまみ買ったりして持っていくと、センムは『ああ、楽になった』なんて、喜んでくれていました」。
甲州屋の児玉さん、小川原センム、杉田さんは全員が当時30代。純米酒の時代が、きっとこれからやってくる。その手ごたえを感じながら、3人はそれぞれの持ち場で日本酒への熱い思いを抱いていた。
「甲州屋さんとセンムと僕とで、熟成酒の会もずいぶん開催しましたね。センムは『甲州屋と話すと酒に対する未来が見える。先見性があって、鋭い』と言っていました。甲州屋には誰も飲んだことがないようなお酒が新酒も古酒もどんどん来るわけですよ。それが届くたびに利き酒していたから、児玉さんは本当にいろいろなことをわかっていたと思う。それを私たちにも飲ませてくれてね。80年代の前半に、すでに熟成酒のことも理解されていたんですよね」。
ところが、3人で共に行動できたのは、わずか5年。児玉さんは1986年に43歳という若さでこの世を去ってしまう。
「癌だったんですよね。無理も重ねていたからね。だんだん元気がなくなって。最後に会ったのは、児玉さんが何かを悟ったのか、うちの店に来てくれた時。児玉さんは、ハッキリとものを言う人だったけど、その時はいつもの毒舌がなくてね。うちの家内も『今日の甲州屋さんは元気ないなあ』と。それで、玄関で頭下げて帰っていったの。最後のお別れに来てくれたんだね。そのあと、すぐに入院して、亡くなってしまった。センムは、泣いていましたね。本当に理解者だったし、甲州屋さんには、すごく恩義も感じていたからね。だから児玉さんが亡くなったあとも、センムが残されたご家族のことをいろいろと助けていましたよね。店のことも残そうとしてね」(1998年に甲州屋酒店は閉店)。
80年代前半の池袋には、「味里」のほか、同時期に誕生した「傳魚坊」、「舎人庵」「ふな六」といった銘酒居酒屋が人気を集めつつあり、隣駅の大塚には1980年にオープンした人気店「串駒」があった。「串駒」の名物店主・大林禎さん(故人)が「甲州屋さんは恩人」と話しているのを筆者は聞いたことがある。新宿の「地酒屋」店主・岡田孝史さん(故人)もまた「甲州屋さんは俺の親のようなもの」と呟いていた。日本酒自体がまだ青春期のようだった時代、その舞台が池袋・大塚・新宿であったのは、児玉さんがその界隈を駆け回っていたからだった。
「甲州屋さんの生きざまを見ても、神亀さんの生きざまを見ても、本当に真正面からお酒に取り組んでいたなと思いますね。無駄は承知で。だってほんとに売れてなかったんですから。神亀のセンムだって、全量純米蔵に切り替えたのは、あれは人生の勝負をかけたんだと思うんだ。これからは純米酒の時代なんだと。誰かがそれを真っ先にやらなかったら物事は変わらないし本物が残れない。それは僕も教わったことでしたね」。地酒の青春期を共に過ごした二人を偲ぶ、杉田さんの述懐だ。(続く)
文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子