銘酒居酒屋「真菜板」店主の杉田衛保(もりやす)さんと神亀酒造・小川原良征センムとの出会いは、日本酒業界の流れを変えるひとつの発端となった。純米酒の支持が少数派だった時代、二人は縁あって出会った飲み手たちの意識を少しずつ変えていき、その変化は大きな潮流となっていく。 現在、純米酒、無濾過生原酒、熟成酒といった“ピュアで力強い酒”は、“多彩な食と共に愉しむ酒”として存在感を増しているが、そこに至るまでの杉田さんの歩みとは。
1998年。当時55歳だった杉田さんは17年間店長として過ごした池袋「味里」を辞して、高田馬場に新店舗「真菜板」を開店する。「味里」時代は客席が70席、日本酒は100種類をこえる銘柄を揃えていたが、新店舗の「真菜板」は、カウンター10席のみ。日本酒は杉田さんが厳選した19蔵の酒に絞り込んだ。料理は妻の征子(せいこ)さんが和洋の料理を一人で担当し、夫婦二人だけで営む店がスタートした。
店の規模を小さくしたからこそ、これからは自分の好きな酒だけを置こう。そう決めた杉田さんが選んだ酒は、まずは熟成に耐えるたくましい純米酒であることが基準だった。
「昭和の時代は、炭素濾過した酒が多かったし、酒質が弱くてひねやすい分、蒸留したアルコールを添加して保(も)たせていたようなところがあった。でも、僕が思うには、ありえないですよ、醸造酒に蒸留酒を混ぜるなんて。そして、それを醸造酒として売るなんて。でも、それを国が認めているわけですからね」。
だからこそ、個人の活動では、自分の舌で選んだ本質的な酒を提供していく。それが杉田さんの静かな反骨精神だった。
さらに杉田さんが当時から惹かれていたのは、「ピュアで力強い」と感じた純米無濾過生原酒。そして歳月を重ねて円熟味を得た熟成酒だった。どちらの選択もきっかけとなったのは、昭和の時代の神亀酒造での体験だった。
「活性のにごり酒やしぼりたての生酒を初めて飲んだのは、神亀酒造でのことでした。フレッシュな酒の魅力も熟成酒の魅力も、どちらもセンムに教わったんですよね。だから私にとって厳正な酒の基準はいつも神亀でした。センムは『もとの造りが良い酒であれば必ず熟成に向く。むしろ、熟成させた酒のほうが味乗りがして、バランスがよくなる。だからお燗に向くんだ』と言っていましたね」。
神亀酒造で無濾過生原酒に開眼、さらに熟成酒への理解も深めていた仲間がもう一人。「マルセウ・本間酒店」の本間富士男さんだ。「味里」時代の終盤に本間さんとの出会いを得た杉田さんは、「一蓮托生の思い」で本間さんとのタッグを組み、新しい店「真菜板」に置く酒を純米無濾過生原酒と熟成酒に特化していく。
何の宣伝をするでもなく、しばらくは夫婦二人でゆったりと静かに……という杉田さんの予想は外れ、「味里」時代からの常連客は、真菜板の存在を知るや、6分の1の規模となった店へとかわるがわる駈けつけてきた。和食だけでなく、洋食も得意な征子さんが作るゴルゴンゾーラのグラタンやビーフシチューは、杉田さんが燗付けをする熟成酒と絶妙の相性で、真菜板ならではのパンチのきいたマリアージュは、すぐさま大人気となった。
開店日にふるまい酒の樽酒を寄贈したセンムも真菜板には、ちょくちょく顔を出した。
「僕が『お燗はどのくらいまで熱くしますか』と聞くと『神亀は熱くしていい、70度にしたって耐えるから』とか『それが冷めていく間も美味しい』とか、いろんなことを話してくれましたね。日本酒が文化的に長い間遅れていたのは、料理と合わせて飲ませていなかったところ。まず酒ありき、銘柄ありきで、みんな飲んでいた。でも、センムはどんな料理と酒を、どんな温度で合わせるかということまでを考えていて、教えてくれることはつねに的を射ていましたね」
連日多忙を極める杉田夫妻にとって幸いだったのは、壁一枚を隔てた隣が「大観楼」という中華料理店で、同じく夫婦二人でカウンターだけの店を営む浅井勝美さんと純子さんとの縁が生じたことだ。
「真菜板の開店準備中、内装工事の時には浅井夫妻が大工さんたちにお茶やご飯を出してくれていたと、あとから聞きましてね。いまどき、そんな親切な人たちがいるのか、なんていい人たちかとびっくりしましたよ」。
人柄の良い浅井夫妻が営む町中華は、真菜板が混みあってすぐには店に入れない時の待ち合わせ場所にもなった。真菜板の常連客たちは、まずは「大観楼」で餃子やチャーシューをつまみながらビールを飲み、席が空く頃あいを見て真菜板に移動した。時には餃子や海老チリを真菜板に持ち込んで杉田さんのお燗と合わせる客も。この飲み方、というより、この町中華をいたく気に入って、人情溢れる店主夫妻を深く愛したのが小川原センムだった。ほどなくして「大観楼」にも神亀が置かれるようになり、真菜板の神亀が足りなくなると杉田さんは隣に酒を借りに行ったりもして、まるで人情長屋のようなつきあいが続く。浅井さんの料理を好んだセンムは、神亀の熟成酒と中華料理を合わせる会もみずから開催した。
さらに「大観楼」にも入りきれない客たちは、通りを隔てた向かいの喫茶店「ピステ」(現在閉店)でも時間を過ごし、休日には「ピステ」でも、真菜板の料理と大観楼の中華とを半々で出す日本酒の会が開催されるようになった。杉田さんが高田馬場に移転したことで、ファンの多くもそれを追いかけ、店周辺も酒の聖地として賑わったのである。
活気に溢れた10年が過ぎた2008年、「真菜板」のファンたちによって10周年記念パーティーが企画され、会場には早稲田の「リーガロイヤルホテル東京」が選ばれた。杉田さんの祝い事となれば、センムが協力しないはずはない。日本酒と引き立て合う料理が提供されるようホテル側と交渉をし、杉田夫妻ゆかりの各地の蔵元有志に声をかけ、会が盛り上がるよう駆け回った。「あの時はセンムも張り切って準備してくれてね。嬉しかったですね」。
酒を造る側、飲む側、双方に、温厚な杉田さんを慕う人たちは多い。結果、店の規模が10席であるにもかかわらず、真菜板の10周年を祝福する人たちは、全国各地から165人が集まり、祝電も多数届いて会は大盛況となった。
この頃、杉田さんとセンムとの間では、日本酒に対する見解が同じだったわけではない。無濾過生原酒が究極の酒であると考える杉田さんに対して、センムは「無濾過生原酒ばかりでは疲れる」と異を唱え、加水、火入れを施した酒をお燗にして飲むことを強くすすめていた。辛抱強さと短気さを併せ持ったセンムは、意見が異なる相手と衝突することも少なくなかったが、常に柔和な杉田さんとは喧嘩になることはなかった。
「うん、喧嘩にならなかったねー。だって、僕に無濾過生原酒を教えてくれたのはセンムだもんって言ってね(笑)。たしかにね、生酒の原酒は暴れている、胃が疲れるということはセンムから何度も言われて、ああ、また言われちゃったと思うことが続きました。でも、僕は疲れる、疲れないというのは、飲み方によると思ったんですよ。それに自分が敢えてほかのお酒は全部やめて、純米無濾過生原酒に絞り込んだからには、この酒を真菜板で広めたいと思ったんですよね。搾ったまま何の操作もしていない酒は究極のもので、それは間違いないことだから」。
双方、ついぞ自分の意見を譲ることはなく、けれども喧嘩にいたることもなく、杉田さんとセンムは、センムが亡くなる2017年春まで36年のつきあいを守りきった。その翌年、2018年10月に杉田さんは高田馬場の店を閉めて、鳥取県智頭町へ移住。真菜板の閉店は、大勢のファンを嘆かせたが、同年11月に、智頭町でも店を再開。その朗報が伝わると一年半の間に130人の常連客が杉田さんを追って、この町を訪れたという。
「当面は誰も来ないだろうと思っていたのに、遠くから来てくれる人たちがいてね。嬉しかったですね。一回来てもらうたびに張り合いが出て若返る感じ(笑)。頑張ろうって思いますね。いつだったか、雑誌を読んでいたらイギリスの作家が書いた記事に『レッド・オーシャンとブルー・オーシャン』という言葉が出てきたんですよ。レッド・オーシャンというのは、たくさんの生き物が集まってくる競争の激しい海。ブルー・オーシャンというのは、どこにも競争相手がいなくて大海原に自分だけ。それを読んだ時に、自分がやろうと思ってきたことは、これなんだな、この道でいいんだと納得しました。智頭町はブルー・オーシャンだけど、わかってくれる人だけは来てくれます」
人と会う機会は東京時代と比べると少なくなった杉田さんだが、自分が選び、愛した酒を伝え続ける日常は、この智頭町でも同様だ。仕事を終えた晩酌時、時折は10周年記念パーティの記念アルバムを広げて、参加者たちから寄せられたコメントを読み返すという。
「楽しい思い出ばかりだね。自分がやってきたことは、間違ってなかったなと思いますね。最初の日本酒との出会いが神亀だったのが私にとっては幸せでした。いい出会いでした」。
文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子