都内東部の下町エリアで純米酒を啓蒙する本所吾妻橋の酒販店「ニシザワ酒店」。かつて昭和の高度成長期から平成初期にかけては、繁華街の飲食店を対象とした業務用酒販店だった。 だが、酒販業界の変化に危機感を感じた2代目店主・西澤亨(とおる)さんは神亀酒造・小川原良征さんとの出会いを機に、純米酒だけを扱う地酒専門店に店の形態を大改革。蔵元と酒販店として出会った二人は、深い信頼を寄せあい、気の置けない友としても行動を共にしていく。
神亀酒造小川原センムと「ニシザワ酒店」西澤亨さんが出会ってから9年後。家族ぐるみの親しいつきあいを続けていた二人は、2011年9月に西澤さんの二男・貴夫さんと小川原さんの長女・佳子さんが結婚したことで、本当に親族となった。
2011年は、東日本大震災による未曽有の大被害により記憶される年だ。国全体を覆った自粛を求める空気は、飲酒に対する罪悪感をも生み出し、酒造業界、飲食業界は二重の痛手を受けたが、小川原センムは「こんな時こそ、みんなの力を集めよう」と奮起。「神田新八」の店主・佐久間達也さんに東北支援のためのイベント開催を依頼し、短い期間で百数十人を集客し、日本酒の売り上げ金すべてを東北の被災地へと送金した。
震災の痛手が癒えぬままの同年4月、西澤さんは長年連れ添った妻の美枝子さんを病で喪っている。「とおるちゃん、大丈夫かな」と西澤さんの心身を気遣ったセンムは、少しでも慰めになるならと毎週蓮田から浅草へと通い続けた。西澤さんと浅草の居酒屋「志婦や」で飲むためだ。「志婦や」の定休日は月曜日。店が開く週はじめの火曜日には時間がつくりやすいということで、二人の呑み会の日は火曜日に設定された。
この時点で、西澤さんは67歳。小川原センムは65歳。多忙な上に首肩、足腰、あちこちに身体の不調も出てくる年代の二人は、柴又にある西澤さん行きつけの整体院へも毎週火曜日に連れ立って出かけている。まずは身体をメンテナンスし、その帰りに酒を飲む。「火曜会」と名付けた毎週恒例の二人の外出はセンムの晩年まで続けられた。妻の美和子さんによれば、センムは仕事の用事も出張も火曜日と重ならないように苦心していたという。
「センムは、西澤さんと出会ってからは、浅草が大好きになっちゃって」。
センムが折々に人に手渡す手土産も、浅草名物の雷おこしと人形焼きに。少年のような律儀さを持ち続け、好きになったら、とことん入れあげるのがセンムという人だった。
「私が病気の時にセンムがね」、クフフと西澤さんが思い出し笑いをしたことがある。「西澤以外は誰も飲むな、という純米大吟醸を私のためだけに一樽分詰めてくれたことがあったんですよ。この酒は、すごくいいから、これだけを飲んでいろと。私もあれだけ艶のある酒は、見たことなかったですね」。
見舞いの品も酒。良い酒は百薬の長、自蔵の酒が身体に悪かろうはずがないという確信をセンム自身が持っていた。
西澤酒店が位置する東京東部の墨田区は、純米酒の浸透ということでは後発だったが、地元の本所吾妻橋、浅草、東日本橋、清澄白川、錦糸町周辺を着火点とした西澤さんの営業活動は、じわじわと下町エリアの居酒屋の酒メニューを純米酒へと書き替えていく。やがて「ニシザワ酒店に行けば神亀が揃っている」、「お燗で純米酒の試飲ができる」と知ったファンが増えるにつれ、銀座、六本木、麻布周辺、遠くは中央線沿線からも飲食店の店主や日本酒ファンが訪ねてくるようになった。
バブル期でもなく、むしろ、不況と呼ばれる時代に、個人の酒販店が多くの飲食店の意識を少しずつ変えていく。結果、都内の地酒地図を塗り替えたことは、人ひとりの不退転の決意が物事を動かすという希望につながる一例だ。
しかしながら。純米酒が徐々に世の人たちに認知されていく中で、西澤さんが疑念を持ったのは、「純米酒」と呼ばれる酒の中にも、さまざまなものがあるということだった。
「いろんなお店で純米酒のお燗を飲んでみているうちに、あれ、これは? と思うものにも出会うようになってきたんですよね」。
お酒の温度を上げても燗上がりがしない。酵素臭のような、おかしな臭いがする。食事と合わない。特に出汁と合わない。飲食店からは「純米酒なのに煮きりに使えないお酒がある」という声も届いていた。
西澤さんが感じていた違和感は、まさに小川原センムが憂いていた「薬剤の使用により起こっている”純米酒”の変化」だった。(続く)
文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子