気づかないうちに、若草が土の上に顔を覗かせています。本誌連載、「『岬屋』の和菓子ごよみ」では、東京・渋谷にある上菓子店「岬屋」の季節の和菓子を、毎月紹介しています。WEBでは、本誌で紹介しきれなかった「おいしさの裏側」をお伝えしていきます。本誌連載と併せてお楽しみください。
「これは、本わらびの生地でないとつくれない菓子なんですよ」と主人の渡邊好樹さん。
薄く粉のついた半透明の生地は茶色を帯びていて、独特な色合いだ。そこに、ところどころ、若草色の餡が透けて見える。
「これは春霞だよね。少し土を巻き上げたような、茶色っぽくぼんやり見える景色の中に、春があるの」
生地の材料は、本わらび粉と水、上白糖。わらび粉を水で溶いて砂糖を加え、熱を加えながら生地を練り上げ、若草色に色づけした白漉し餡を包み込む。
「今、本物のわらび粉は希少になったね」と主人は言う。わらびの根を叩いて、ほぐして、水で洗って澱粉を取り出して粉にするので手間がかかる。
本わらび粉を見せてもらうと、少し茶色や灰色が混ざったような色をしていた。
「アクがあるからこういう色になるんじゃないかな。これは栽培ものだけど、この色が、本わらび粉の特徴です。粘りと弾力があって、味もいい」
では、本わらびの生地づくりを見ていこう。さわり(打ち出しの銅鍋)にわらび粉を入れ、水を少しずつ加えて固まりをほぐし、上白糖を混ぜて火にかける。
さわりに当たっている面から固まるので、木べらで底をこそげるようにしながら混ぜる。
小さな固まりができ始めると、どんどんぽってりとしてくる。木べらを大きく動かすと、その動きに合わせて生地が伸び、さわりに張りつくようになった。
ここまでが“半返し”(生地に半分まで火が通った状態)。
葛の生地をつくる時と同じような工程だが、「本わらびの場合、ここから先が変わっているんだ」と主人。
生地をしゃもじで中央に寄せ、ジャーっと湯を注ぎ入れた。
「葛の生地は、半返ししてから蒸し器に移して蒸すけれど、本わらびの生地は、お湯のなかでゆでて火を入れるんだよ」
木べらを軽く押し出すように動かすと、生地はさわりからはがれ、ゆらっと湯の中に浮いた。
途中、生地を4等分に分けた。小さくなった生地の周りに湯を回し、効率よく火が入るようにするためだ。
「混ぜちゃいけないんだ。生地に水分を加えたいわけではないからね。目的は、ゆでるだけ」
下手な動かし方をすると、生地が湯と馴染んでしまうから、触りすぎてはいけない。しかし、放っておくと焦げるから、生地をやんわりと動かし続けなくてはならない。微妙な匙加減をしながら、湯が蒸発していくのを見守る。
周りの湯が蒸発して少なくなり、生地がプツプツと音を立て始めると、さらに小さく切り分けて、ゆっくりと混ぜながら、どんどん火を入れていく。
水分がとんで、生地を練り混ぜる頃には、艶と透明感が出てきた。ポテン、ポテンと粘り気のある音がする。
「いい出来ね。音で分かるのよ」と、作業場にいる女将さんが微笑んだ。さわりの中を見なくても、音の変化でわかるのだという。
「同じ産地のわらび粉でも、毎年出来が違うから、この菓子のつくり始めは気を使うよ。シーズンが始まる前に、まずは一度つくってみて、今年使うわらび粉の出来はどうか、水分はどれくらい必要かを見極めるんだ」と主人。
特に「春風」は、中の餡がきれいに透けるように仕上げたいから、生地づくりには神経を使う。
ここからは、包みの作業。とり粉に熱々の生地を落とし、粉をまぶしながら小分けにしていく。
「いい本わらび粉でつくると、弾力が出るんだよ。力を入れてもそうそう切れない」
女将さんが生地を手早く丸めて押しつぶし、若草色の餡玉を押し当てた。
ひょいと向きを変えて餡玉の上に生地をかぶせ、柔らかな生地が下にたれていくのに合わせて手で支え、形を整える。
もう一度、丸め直して形をひきしめると、包まれた上の部分は、餡の色が透けるくらいまで薄くなり、下のほうは少し生地が集まって、茶色が濃く見えるようになった。
「本わらび粉じゃないと、この景色が出ないんだ」と主人。
黒糖などを混ぜているわけではない、わらび粉そのものの色だ。
「さあ、お化粧するわよ」と女将さん。
刷毛で余分な粉をはらうと、春霞の景色が現れた。
「雰囲気としては、春日山かなぁ。この菓子が、いつどこで生まれたかはわからないけど、春の奈良の風景じゃあないかと想像するね。こういう風情は」と主人。
黒文字で半分に割ると、鮮やかな若草の色。パッと視界が開けるような景色の切り替わりが楽しく、美しさに魅了される。
口に入れると、押し戻すような弾力。餡が先に溶け、生地の滑らかさと優しい甘味が余韻となって追いかける。
目で楽しみ、味と食感の繊細さを堪能する、和菓子の醍醐味だ。
文:岡村理恵 写真:宮濱祐美子