スタジオで働く人々の命のチケットである食券。平等に配られているかと思いきや、実情は違ったようで……。「シン・ウルトラマン」、「シン・ゴジラ」など数々の日本映画を監督してきた樋口真嗣さんの、仕事現場で出会った“ゲンバメシ”とは?
最初に潜り込んで以来、何かにつけお世話になっているのは、世田谷・成城にある東宝スタジオであります。現在、都内には映画専用のステージを擁する撮影所が4箇所あります。
練馬区大泉に東映の、調布市に角川大映と日活が、そして世田谷には東宝です。それぞれのスタジオは撮影だけでなく、撮影が終わった後の編集、音の仕上げ作業まで可能な設備があります。つまり、映画作りの全行程が敷地内でできるのです。
この4社に松竹を加えて邦画五社などといわれた時代もありましたが、松竹は2000年に神奈川県鎌倉市にあったスタジオを売却。残る4社もその敷地をどんどん売り払ってかつての栄華はどこへやら、栄枯盛衰のご時世でございます。それ以外にも小さな規模のスタジオは第一回で取り上げた東宝ビルトのように各地に点在していましたが、現在ではほとんど残っていません。
なにしろ日本映画の最盛期である1950年代後半では年間500本以上の映画が制作されていました。週に10本のペースですから撮影所はフル回転です。スタッフもキャストも全員社員として雇われて流れ作業の勢いで 工場のような生産ラインでガンガン動いていたのです。昼夜を問わず操業している生産ラインの周囲には飲食店が集まります。撮影所内の食堂の決まった定食に飽き足らない食いしん坊のために食堂や喫茶店が並び、映画会社が支給する食事手当代わりの食券を持っていけば残業分の食費を会社が賄ってくれる。そんな時代でした。
時代によって値段は違いましたが、入りたての1980年代で750円だったような気がします。
スタジオの中で映画製作、技術部門と美術は経営が独立していて系列会社ではあるけど別会社になっていました。ところが支給される食券の内容が微妙に違ったのです。値段ではなく食券が使えるお店がなぜか違っていたのです。
スタジオ正門前にある和洋中幅広く取り揃えた定食屋「増田屋」(入口にぶら下がっている目印がいつしか通称になった「赤ちょうちん」)と、その並びにある円谷英二監督が通ったという蕎麦屋「紅葉」。バス通りにある寿司屋「寿司源」と洋食ランチの喫茶店「パナシェ」が両社共通で、なぜか中華料理屋が違ったのです。
東宝映像は坂道を上るとかつては戦後すぐに東宝から分裂した新東宝撮影所から、テレビドラマの専門の国際放映になり、今では民放のバラエティー収録スタジオになった東京メディアシティへと向かう途中にある「東華飯店」で食券が使えて、東宝美術は世田谷通りを渡った角のマンションの一階にあった「華華餐庁」と、その路地を入った東宝ビルトの手前の住宅地にポツンとあった台湾料理屋「玉蘭」で使えました。
なぜ中華料理だけは別なのか?美術に出した出前の食器をくすねられたとか諸説があったものの、真相はなんなのか今となっては藪の中であります。この百花繚乱の様相を呈していた撮影所黄金時代のメシ事情。どの店もくせ者揃いで忘れられない味でした。私が10代の終わりから過ごした東宝スタジオの食券三国志であります。
文・イラスト:樋口真嗣
最初に潜り込んで以来、何かにつけお世話になっているのは、世田谷・成城にある東宝スタジオであります。現在、都内には映画専用のステージを擁する撮影所が4箇所あります。
練馬区大泉に東映の、調布市に角川大映と日活が、そして世田谷には東宝です。それぞれのスタジオは撮影だけでなく、撮影が終わった後の編集、音の仕上げ作業まで可能な設備があります。つまり、映画作りの全行程が敷地内でできるのです。
この4社に松竹を加えて邦画五社などといわれた時代もありましたが、松竹は2000年に神奈川県鎌倉市にあったスタジオを売却。残る4社もその敷地をどんどん売り払ってかつての栄華はどこへやら、栄枯盛衰のご時世でございます。それ以外にも小さな規模のスタジオは第一回で取り上げた東宝ビルトのように各地に点在していましたが、現在ではほとんど残っていません。
なにしろ日本映画の最盛期である1950年代後半では年間500本以上の映画が制作されていました。週に10本のペースですから撮影所はフル回転です。スタッフもキャストも全員社員として雇われて流れ作業の勢いで 工場のような生産ラインでガンガン動いていたのです。昼夜を問わず操業している生産ラインの周囲には飲食店が集まります。撮影所内の食堂の決まった定食に飽き足らない食いしん坊のために食堂や喫茶店が並び、映画会社が支給する食事手当代わりの食券を持っていけば残業分の食費を会社が賄ってくれる。そんな時代でした。
時代によって値段は違いましたが、入りたての1980年代で750円だったような気がします。
スタジオの中で映画製作、技術部門と美術は経営が独立していて系列会社ではあるけど別会社になっていました。ところが支給される食券の内容が微妙に違ったのです。値段ではなく食券が使えるお店がなぜか違っていたのです。
スタジオ正門前にある和洋中幅広く取り揃えた定食屋「増田屋」(入口にぶら下がっている目印がいつしか通称になった「赤ちょうちん」)と、その並びにある円谷英二監督が通ったという蕎麦屋「紅葉」。バス通りにある寿司屋「寿司源」と洋食ランチの喫茶店「パナシェ」が両社共通で、なぜか中華料理屋が違ったのです。
東宝映像は坂道を上るとかつては戦後すぐに東宝から分裂した新東宝撮影所から、テレビドラマの専門の国際放映になり、今では民放のバラエティー収録スタジオになった東京メディアシティへと向かう途中にある「東華飯店」で食券が使えて、東宝美術は世田谷通りを渡った角のマンションの一階にあった「華華餐庁」と、その路地を入った東宝ビルトの手前の住宅地にポツンとあった台湾料理屋「玉蘭」で使えました。
なぜ中華料理だけは別なのか?美術に出した出前の食器をくすねられたとか諸説があったものの、真相はなんなのか今となっては藪の中であります。この百花繚乱の様相を呈していた撮影所黄金時代のメシ事情。どの店もくせ者揃いで忘れられない味でした。私が10代の終わりから過ごした東宝スタジオの食券三国志であります。
文・イラスト:樋口真嗣