「シン・ウルトラマン」、「シン・ゴジラ」など数々の日本映画を監督してきた樋口真嗣さんが、仕事現場で出会った衝撃的で忘れられない“ゲンバメシ(現場飯)”とは?
子供の頃は世の中の仕組みなんかよくわかっていなかったから、身の回りのものは未来永劫続くと疑わずにいた。だから無くなった時のショックは大きかったが、大人になるとすべての物事には理由があることを知り、その理不尽さに動揺する事も無くなっていく。
でも俺は、その失われていくものを忘れることはできない。このおばちゃんがつくる野菜炒めのことも……。
東京美術センターは、東宝スタジオから数百メートル離れた国分寺崖線の縁にあった。その昔ここでは、時代劇から未来を描く作品まで、スタジオにセットを設営するための床や壁や屋根といった建材を作る作業場だった。
しかし、昭和30年代後半になると映画を取り巻く事情が厳しくなり、美術センターも賑わいに翳りを見せ、撮影用スタジオとして姿を変えた。作業場には当然のことながら、同時(と書いてシンクロ)録音のための防音加工がなかったので、それならば同時録音が不要なテレビ映画や特撮で使おうと考えたのだ(当時はアフレコで音を入れていたため)。
昭和40年(1965年)から始まった空想特撮ドラマ「ウルトラQ」に始まる、最先端の科学と未来の物語“ウルトラシリーズ”は、雨が降ると雨音が響くようなトタン張り屋根の巨大な掘立小屋=東京美術センターで誕生したのだ。
ウルトラシリーズの撮影が中断されたのち、東京美術センターは東宝ビルトと名前を変えた。そして、「ウルトラマン」で使用していた5番ステージは、東洋現像所(現イマジカ)が長期レンタルし、スターウォーズと並ぶ先進技術を目指して開発したモーションコントロールカメラを常設し、岩井俊二監督の「Undo」(1994)や紀里谷和明監督の「CASSHERN」(2004)、そして私が若気の至りで特技監督として参加した「ガメラ大怪獣空中決戦」(1995)も撮影した。
そんな陸の孤島での食事は、出前か所内のおばちゃん3人で仕切るサロン(食堂)しかなかった。撮影所というものは人の出入りに波がある。その増減に対処するのがサロンの実力かと思いきや、厨房は大混乱だった。いつも。
そのポテンシャルに分不相応なまでに充実したメニューが混乱に拍車をかけ、押し寄せる撮影労働者の行列はサロンの外まで伸びていく。そんなある日、おばちゃんは遂に人間の常識を超えた――。
もはや常態化していた、コンロで焼きあがるサバ塩を素手で返す技が進化し、中華鍋の野菜炒めまでも素手で混ぜているではないか。
まだ食券というシステムはもちろん、下水道すら導入されていない世田谷の果て、東京のドーバー、国分寺崖線の際で押し寄せる注文に対応しながら……
「ごめんなさいね日替わりおしまいなのーッ!熱いッ!!」
なんと、おばちゃんの手はその熱さからのダメージを最低限に留めるために貫手の型になっている。
菜箸のほうが楽だと思うんだが持ち変えることを頑なに拒み、まるで愚地独歩(おろちどっぽ)のように野菜炒めを貫手で突き続けるおばちゃん。あの野菜炒めの美味しさは、もしかしたらおばちゃんの手が隠し味だったのかもしれない……。
(東宝ビルトは2008年に合理化のため、閉鎖解体され、その敷地は分譲住宅になっている)。
文・イラスト:樋口真嗣
子供の頃は世の中の仕組みなんかよくわかっていなかったから、身の回りのものは未来永劫続くと疑わずにいた。だから無くなった時のショックは大きかったが、大人になるとすべての物事には理由があることを知り、その理不尽さに動揺する事も無くなっていく。
でも俺は、その失われていくものを忘れることはできない。このおばちゃんがつくる野菜炒めのことも……。
東京美術センターは、東宝スタジオから数百メートル離れた国分寺崖線の縁にあった。その昔ここでは、時代劇から未来を描く作品まで、スタジオにセットを設営するための床や壁や屋根といった建材を作る作業場だった。
しかし、昭和30年代後半になると映画を取り巻く事情が厳しくなり、美術センターも賑わいに翳りを見せ、撮影用スタジオとして姿を変えた。作業場には当然のことながら、同時(と書いてシンクロ)録音のための防音加工がなかったので、それならば同時録音が不要なテレビ映画や特撮で使おうと考えたのだ(当時はアフレコで音を入れていたため)。
昭和40年(1965年)から始まった空想特撮ドラマ「ウルトラQ」に始まる、最先端の科学と未来の物語“ウルトラシリーズ”は、雨が降ると雨音が響くようなトタン張り屋根の巨大な掘立小屋=東京美術センターで誕生したのだ。
ウルトラシリーズの撮影が中断されたのち、東京美術センターは東宝ビルトと名前を変えた。そして、「ウルトラマン」で使用していた5番ステージは、東洋現像所(現イマジカ)が長期レンタルし、スターウォーズと並ぶ先進技術を目指して開発したモーションコントロールカメラを常設し、岩井俊二監督の「Undo」(1994)や紀里谷和明監督の「CASSHERN」(2004)、そして私が若気の至りで特技監督として参加した「ガメラ大怪獣空中決戦」(1995)も撮影した。
そんな陸の孤島での食事は、出前か所内のおばちゃん3人で仕切るサロン(食堂)しかなかった。撮影所というものは人の出入りに波がある。その増減に対処するのがサロンの実力かと思いきや、厨房は大混乱だった。いつも。
そのポテンシャルに分不相応なまでに充実したメニューが混乱に拍車をかけ、押し寄せる撮影労働者の行列はサロンの外まで伸びていく。そんなある日、おばちゃんは遂に人間の常識を超えた――。
もはや常態化していた、コンロで焼きあがるサバ塩を素手で返す技が進化し、中華鍋の野菜炒めまでも素手で混ぜているではないか。
まだ食券というシステムはもちろん、下水道すら導入されていない世田谷の果て、東京のドーバー、国分寺崖線の際で押し寄せる注文に対応しながら……
「ごめんなさいね日替わりおしまいなのーッ!熱いッ!!」
なんと、おばちゃんの手はその熱さからのダメージを最低限に留めるために貫手の型になっている。
菜箸のほうが楽だと思うんだが持ち変えることを頑なに拒み、まるで愚地独歩(おろちどっぽ)のように野菜炒めを貫手で突き続けるおばちゃん。あの野菜炒めの美味しさは、もしかしたらおばちゃんの手が隠し味だったのかもしれない……。
(東宝ビルトは2008年に合理化のため、閉鎖解体され、その敷地は分譲住宅になっている)。
文・イラスト:樋口真嗣