鳥取県の「日置桜」醸造元・山根酒造場と埼玉県の神亀酒造には、先代の頃から“純米酒造りに賭ける同志”として共に語り合ってきたという縁がある。2蔵共通の認識は「醸は農なり」。酒造りは農業の延長線上にある、という確信を抱いての純米酒造りだ。もうひとつ、2蔵に共通するのは、熟成酒の追求。米の酒を醸し、熟成させる。このテーマについて、蔵元たちはどんなやりとりを重ねてきたのだろうか。
2017年4月26日、27日。小川原良征さんの通夜、告別式が営まれた東大宮葬斎センターには、両日ともおよそ6百人の弔問客が訪れた。
この葬儀の席で、悲しみに沈む参列者たちの心に沁みいった一通の弔電があった。
「センムの生きざまに憧れ、いろんな真似をしてまいりました。真似ごとは真似ごとでしかないのですが、真似なかったらわからなかったことがたくさんあります。今、それが私の財産となっています」
一字一句を正確に再現できるのは、七回忌を迎えようとしている今も小川原夫人の美和子さんがこの弔電を大切に保存していたからだ。夫人にとっても、この弔電は心に深く残るものであったという。弔電には送信者の心情が映し出されるものだが、同時に故人の在りし日も浮かびあがってくる。弔電の送り主は、山根酒造場の蔵元・山根正紀(まさのり)氏。センムの生きざまとは、山根さんには、どのように映っていたのだろう。
山根さんが初めて神亀酒造を訪問したのは、四半世紀以上前のことになるそうだ。
「1995、6年頃だったと思います。鳥取県酒造組合青年部では毎年県外視察があって、上原浩先生も同行して下さり、神亀酒造の見学に行きました。仕込みのシーズンでしたので五百万石の新酒を搾っている状態で利かせてもらって、それが旨かったですね。私は基本的に五百万石って嫌いなはずだったのですが、あれは旨かったなあと。酒槽(ふね)で搾るとこういう酒になるんだなと思いました」。
蔵見学が終わってから見学者一同は、事務所に移動。青年部からのさまざまな質問に小川原さんが答える形になった。
「だいたい、こちらが1を聞くとセンムからは3くらいのことが返ってくる。1を聞きたいのに、そして1でもわからないのに、2や3までをセンムは話されるから我々にとっては謎かけのようで。聞いたこともないような言い回しやセンムならではの表現が新鮮で引き込まれました。まあ、もちろんオーラも半端なかったですけど、ゆっくりの口調でも凝縮したような意味深い言葉をたくさんもらって。こういう酒を生み出す人には、こういう雰囲気があるんだなと、立ち居振る舞いにも発する言葉にも圧倒される感じでしたね。我々、若い同業者にも優しかったけど、ただ、中途半端な質問すると不機嫌になってましたね(笑)」。
話すだけではなく、小川原さんは、いろいろなお酒をテーブルに並べて、青年部の人たちに利き酒を薦めた。
「これを飲んでみろ、あれも飲んでみろ、お燗つけてみようとか。すごく楽しそうで嬉しそうで。その時、熟成酒も利かせてもらったんですが、『時の流れ』シリーズの8年ものだったか、それを口にした時に、なんだこれは、と驚かされました。熟成感はすごくあるのに、ひねてない。なんでひねていないんだろう? とそれが不思議で仕方なくて、そこからはずっと質問攻めでした。その時に出てきたキーワードで、自分でもやってみたいと思ったのが、“完全発酵”と“熟成”ということでした」。
熟成酒に興味を惹かれた山根さんは、小川原さんに紹介された熟成酒のパイオニア、岐阜県『達磨正宗』醸造元・白木恒助商店の白木善次蔵元を訪ねる。そこで見たタンク丸ごとの常温熟成とタンクの底に溜まった澱(おり)は、山根さんにとっては衝撃の光景だった。
「白木さんから『山根さん、10年古酒のタンクの底には澱が溜まっているけど、その上澄みの酒はきれいなんだよ。それってあとから精米しているのと同じ働きだよね』と説明していただいて。白木さんはその時代でも、すでに長いこと熟成酒をやってらしたわけだから、どれだけ先見の明があるのか、どうしてそんな思いつきを実践できるかなあと驚きましたね。それで自分でも触発されて、白木さんのような貯蔵方法で純米酒の熟成酒をやってみようと思ったんです」。
岐阜から鳥取へと戻った山根さんは、興奮も冷めやらぬまま、自蔵でのタンク熟成を父の常愛(つねよし)さんに提案したという。
「4500Lくらい入っている純米タンクがあったので『あのタンクを10年売らずに、そのまま熟成させてくれ』と父親に頼みました。そうしたら『おまえはうちの蔵をつぶす気か! 』と。そんなやりとりがあったあと、うちの父親が小川原センムに電話して『あんたがうちの息子に何か変なこと言ったんじゃないか』と。そしたらセンムが『そんなのやらせときゃいいじゃないですか』と言ったようなんですよね(笑)。そうしたら、『絶対駄目』と言っていた父が『まあ、許したるわ』みたいにガラっと変わって」。
(この項続く)
文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子