1980年代の吟醸酒ブームの頃、小川原センムが唯一憧れた酒がある。それが鳥取の「諏訪泉・鵬(おおとり)」だった。諏訪酒造の南條倫夫社長から蔵を引き継いだ東田雅彦さんは、四半世紀前から小川原センムと深く交流し、最晩年はセンムが主宰した「全量純米蔵を目指す会」事務職の秘書役に。センムとともに文字通り東奔西走した。
「あとは、トーダに聞け。あいつには、いろいろ話してあるから」。2017(平成29)年春、最晩年の小川原良征さんがベッドの上で呟いた言葉だ。“あと”とは、自分がいなくなったあと、の意。トーダ、とは、鳥取銘酒「諏訪泉」の蔵元・東田雅彦さんのことだ。
東田さんは「神亀」の酒を純米酒造りの指標に置き、師と仰いだ小川原さんと多くの時間を共に過ごした一人だ。小川原さんが主宰した「全量純米蔵を目指す会」に立ち上げ前から関わり、結成後は事務局の秘書役として小川原さんの言葉を記録し、つくれる限りの時間はつくって、各地を奔走する小川原さんに同行した。
東田さんと小川原さんの出会いは、1996(平成8)年。北海道・旭川で開催された日本酒の会で同席したのがきっかけだった。
「神亀のひこ孫を飲んで、これはすごい酒だなあ、と思っていたんです。そうしたら、その蔵元のセンムさんが『諏訪泉は好きな酒だ』と言ってくださったので、えっ、神亀さんがうちの酒を!? と驚きましたね」。
その頃の東田さんは、諏訪酒造の新入社員。前職の出光興産の研究所では10年間、発酵生産の研究に取り組んでいたが、会社の経営方針の変更により研究所が閉鎖。東京から鳥取へのIターンで諏訪酒造に入社したばかりだった。自分を蔵に招致した諏訪酒造社長・南條倫夫さんと小川原さんとの深い縁は、旭川の会で初めて耳にした。
その南條社長率いる諏訪酒造で醸されていた大吟醸酒を、1980年代から憧れを抱きつつ飲んでいたのが30代の頃の小川原さんだ。諏訪酒造では、鳴川喜三さんという広島(三津)流名杜氏の存在があり、その鳴川杜氏が醸した最高峰の大吟醸「鵬」(おおとり)の熟成酒を小川原さんは池袋の銘酒居酒屋「味里」でたびたび口にしていた。蔵の最高傑作である大吟醸の熟成酒を醸造年度違いで味わえるという「鵬」は、神亀酒造で追い求める理想をすでに具現化している酒だった。
その醸し手である鳴川杜氏は、漫画家・尾瀬あきらさん作の「夏子の酒」の主人公・夏子が敬愛する杜氏のモデルにもなった人だ。作中に登場する「天のない酒造り」「杜氏は毎年が一年生」という言葉は、鳴川杜氏自身が尾瀬あきらさんに贈った言葉である。
「諏訪泉が好き」という小川原さんの言葉を聞いた東田さんは、埼玉県蓮田の「神亀」の蔵にちょくちょく足を運ぶようになる。「センムは、いろいろな体験を話してくれました。こちらも当時の蔵の難しい状況を聞いてもらって」。
かつての諏訪酒造は、華麗なる吟醸酒を醸すイメージがともなう蔵だった。だが、バブル期が過ぎた1990年代後半は日本酒業界全体が消費の低迷期にあり、諏訪酒造もその例外ではなく苦境のさなかにあった。また長年、諏訪泉の味を醸してくれていた鳴川杜氏は1996(平成8)年に引退し、蔵全体が今後の酒造りを暗中模索している時期でもあった。
入社当時の東田さんの肩書は、研究室長だったが、小さな蔵ゆえに仕事の内容は「なんでもやる課」のよう。さらに後継者のいなかった南條社長からは、次期蔵元候補の任も託され、東田さんは酒質設計から経営補助までをこなす必要に追われていた。
「これからの蔵をどうしていこう、と考えていたときに神亀酒造に通って、これからは食中酒としての純米酒だ、と思いました。もう、吟醸酒の路線ではないなと」。東田さんの決意を聞いた小川原さんは鳥取へと飛び、蔵の設備、動線の見直しから麹造り、仕込み配合にいたるまで細やかな指導を開始した。
「麹造りの重要さ、熟成の大切さはセンムさんから徹底的に教えてもらいました。その頃は上原浩先生(*)もまだお元気だったので、一緒に見守ってくださる感じでしたね。上原先生もセンムさんの純米酒造りに共鳴されていたので」。
*上原浩さんは、1925(大正14)年鳥取県生まれの酒造技術者。鳥取県工業試験場勤務を経て、鳥取県酒造組合連合会技術顧問であった。蔵元交流会常任顧問、日本酒サービス研究会最高技術顧問も務めた。『夏子の酒』に登場する酒造技術者・上田久のモデルとしても知られる。「酒は純米。燗ならなお良し」と語り、純米酒、燗酒啓蒙の牽引役も務めた。
2002年.東田さんは取締役社長に就任。純米酒造りに注力はしても、熟成にはなかなか回すことのできない時期が続く。じっくりと熟成させた酒を出荷することができたのは、社長就任から数年後のこと。小川原さんの教えを忠実に守り、満を持して出荷した諏訪泉の熟成純米酒は、どこかしら神亀に佇まいが似ていた。
「『神亀は二ついらない』と酒販店さんに言われた時は本当にショックでしたけどね。そんなふうに言われてしまうのかと。でも、反対に支持してくれる人も出てきたんです」。
(この項、続く)
文:藤田千恵子 撮影:伊藤菜々子