すき焼きといえば牛肉!かと思いきや、明治時代のすき焼きは今とは違っていたようで……。本当にあった「食」にまつわる珍事件を、フードアクティビストの松浦達也さんが掘り起こす読み物連載。なぜその珍事件が起きたのか!?時代背景の考察とともにお届けします。
日本の食において、長く“ごちそう”の地位に君臨するすき焼き。明治時代初期に「牛鍋」として東京でブームとなり、その後大正時代の関東大震災を経て、関西風のすき焼きとミックスされることで現代のような仕様となった。
登場するものすべて、どことなく間が抜けている。軍事施設に忍び込んで宴会をする若者もずいぶんと呑気だし、夕刻にカンテキと炭、鶏すきの材料という結構な荷物を持った2人組の潜入をうかうかと許す軍事施設も国防を預かる施設としてゆるすぎる。そんな失火の消火に駆り出される工廠の職員の風情も少々ユーモラス。もっとも今回の主題はそのいずれでもなく「すき焼き」だ。
現代の関西圏は「肉と言えば牛」と言われるほど、生活に牛肉が浸透している。現代でも鶴橋の焼肉、肉吸いや肉うどんなど、西では肉=牛肉というイメージが強いが、上記の失火の原因は「鶏(かしわ)肉の鋤焼」と明記されている。関西では当時どんな「すき焼き」がよく食べられていたのだろうか。
大正後期から昭和初期にかけての全国の食生活を記録した「聞き書」シリーズは1都1道2府43県+アイヌという48冊から成る。シリーズ全冊からすき焼きに関する記述を抜き出してみると、意外なことがわかる。
当時、関西圏の家庭では、牛肉ではなく圧倒的に鶏肉のすき焼きが多かったのだ。すき焼きや、すき焼き様の料理の登場回数を主要肉素材別に整理すると次のようになる(カッコ内は触れられている回数、及び別称)。
ご覧のように、すき焼きの回数第1位は、断然かしわ(鶏肉)だった。滋賀、京都、大阪、奈良など関西圏を中心にのべ30回登場。2位の牛のすき焼きも滋賀や兵庫といった“肉どころ”では複数回記述されているものの、登場回数は鶏肉より少ない計17回にとどまっている。
つくり方を見てみると、その他の具材も鶏肉との相性のいい素材ばかり。火元となった大阪の「聞き書」では、かしわのすき焼きは「かしわとねぶか、水菜、豆腐、麩などを砂糖醤油と一緒に炊きながら食べる」とある。ねぎは関西圏でよく使われる青ねぎではなく、煮込んで甘味を増す関東仕様の根深ねぎ。そこに豆腐や麩など、鶏肉と砂糖、醤油の味わいをほどよく吸って旨くなる食材を投入する。
現代のすき焼きに通じる味は、さまざまな「すき」の積み重ねの上にある。関西では、かしわのすき焼き以前から魚を用いた「魚すき」「沖すき」も存在していた。主たる材料が時代や地域で移り変わる過程で、魚が鶏肉になり、鶏肉が牛肉へ移り変わっていったのだ。
そしてすき焼きは「火にかける」調理法ということもあり、燗酒との相性もさまざまな面で具合がよかった。
前出の事件が起きたのは10月中旬の夕方だ。当時は、鍋を調理しながら燗付けができるという、一台二役のカンテキもあったという。本格的な冬到来の前、屋外でゆるゆると燗づけをして鶏すきをつつく。もっとも身も心も温まるからといって、火薬庫の近くでカンテキをひっくり返していいという道理はない。
ちなみに関西圏で人気だった鶏のすき焼きには、現代の我々にとって超高級品の松茸を投入する家も少なくなかった。実は100年前の松茸の売価は、しいたけの10分の1程度という安価なきのこで、なんなら行楽地では採りたい放題という大衆食だったのだ。いまも「秋の風物詩」とされるのは、当時広く食べられていたことの名残りでもあるはずだ。繊細かつ芳醇な香りの松茸は、味の強い牛肉より、鶏肉のような透明感ある味わいに寄り添う。山で採れたばかりの松茸を山中で鶏のすき焼きに入れたいだけ入れるなんて、なんて豊かな暮らしだろうか。
おっと。「船頭多くして船山に登る」ではないが、松茸という題材が増えたら原稿まで山に上ってしまった。
事件現場に話を戻そう。実は冒頭の大阪の砲兵工廠は、大口径の火砲(大砲)や弾薬などの兵器を製造するアジア最大規模の軍事工場だったという。
火薬庫近くの芝生に火が燃え広がるーー。ことの性質を考えると、工廠側のあわてようも理解できるが、実は同工廠では、鶏すき焼き失火事件の数年前にも、失火が火薬に引火し、50名以上の死傷者を出す大事故を起こしている。人は、のど元過ぎれば熱さを忘れてしまう。だからうっかり火傷しないよう、火薬と火気は遠ざけた方がいいし、すき焼きは卵につけて食べた方がいい。
文:松浦達也 イラスト:イナコ